テニスブログ No.1

「爽やかテニス」のお勧め(PC版)                                                      

⇒ そして相手とのネチネチした競争が嫌でその他のスポーツを選択している人達にも「爽やかテニス」の魅力を伝えていこう!

初めに

これは日頃その辺でやられているテニスの試合で勝敗に拘る人を反面教師として、固定観念を排した新しい試合の考え方=「爽やか試合」の提案とその説明、テニスの技術そしてスポーツ自体のあり方、更に広く人間一般論について考えて行こう、周りの面白い人間模様も書こう、と言う要するに関連ある事を慾張りに詰め込み読んで面白いブログ又は随筆(ちと無理があるか)を目指しています。

現状の具体的問題点と「爽やか試合」を考えるに至った理由
1.今の試合の「ネチネチ試合」では勝敗に拘り周りに弊害をまき散らしす人を生みやすい、逆に実力差等を気にしてプレーから遠ざかってしまう人もいる等、楽しさ、健全性、自由性、闊達性、開放性等が売り物のスポーツの魅力を人々が充分堪能出来ていない。
2.「ネチネチ試合」は勝敗を意識する余り消極性を助長していて、上達する為には別のやり方が必要である。
3.真に勝負をやりたい人には今のやり方は緊張感を欠く
これらの原因として目標がその勝ち方に目が行くのでは無く=目前の1ポイントをどう取るか、内容を問わない「ポイントの機械的集計」の「ネチネチ勝敗」である事に気付きました。
そこで何か他のやり方はと考えていたところ、上級者等がやっているカウントを取らない試合形式の練習=「爽やか試合」に到達し、実際やって「爽やか勝敗」の持つ爽快さ楽しさと前出問題点の解決に近づく事が分かりました。
そこで色々な角度から「爽やか試合」をスポーツ全般のあり方等まで広げてを検討した所、理論付けと様々な新しいやり方のアイデア(オプション)等が出て来たのでここに公表する事にしました。
「爽やか試合」は筆者でも考えたのだから多分同じ様な事を考える人々はいて、本文が彼らの理論付け等の参考になって、試合は「ネチネチ勝敗」しか無いと言う固定観念から開放され、「爽やか勝敗」のプレーの面白く楽しい成果を満喫してもらえればと思います。
尚本文は公式試合等の「ネチネチ試合」を否定したものでは無いと言う事を強調しておきます。

本ブログについて
本ブログは「爽やか試合」がたかがカウントを取らないだけと言う事柄にも関わらず、勿論独断と偏見ではあるものの(常識的見方ほどつまらない物は無く、およそ偏見であるからこそ面白いのだ)、本提案に賛成、部分賛成、反対の何れの方にも、文中の随所に面白い、こんな考えもあったかを目指しており、テニス、スポーツ関係者のみならず一般の人々をも満足させる内容であると密かに自負しています。
特に最近問題となった日大アメフト部に代表される日本の勝利至上主義問題等を考えるヒントになれば幸いです。
又勝敗の無い運動(ジョギング愛好者等 筆者も愛好者)や対戦相手との関係の勝負では無い競技のスポーツ愛好者(競泳、陸上競技等)に言いたい事は、運動を考えた場合最初から頭の中にイメージがある運動=自己完結的運動だけでは不十分で(頭の訓練にならない 運動とは体を動かすと同時に頭の中の神経回路網が出来る事である)、予想されない咄嗟の運動=他人の動きに対する様な運動(他律応答的運動)が人間には必要であると言われている事実があります。
特に優劣が相手との関係で明確になるあり方が嫌で、対戦相手との関係の勝負の競技を避ける事で、せっかくのスポーツ能力の高いのにそれを無駄にしている自己完結的運動の愛好者や、勝敗に敏感で避ける事でやらない方、逆にマイペースを貫きたい方には、こう言う行き方もあると言う事で、本文がいい参考になって「爽やか試合」に参加してくれる人が増えればと思います。
中でも相手のある競技で2人いれば気軽に出来るテニス、卓球は、バトミントン等に比べ球の回転が加わる為(テニスはそれにボレーが加わる)、それだけプレーの幅が広く変化に富んでいて、相手との比較では無く、プレーその物を極める面白さがあります(サーブだけ一人でやるのも面白い)。
アメリカでプロのスポーツ記者へ何が一番面白いかと言うアンケートを取ったらテニスとの答えが6割を占めたそうです(これはプロの評価です)。
確かにサッカーの様にスポーツに集団で熱狂を求める有り方も当然ありますが、世界のトッププロを見ていれば分かると思いますが、クールな特に少人数の戦いは一人の技能が物を言う世界であり、と言う事は個々の心理を中心としたより客観的視点=理論に基づいた考察が必要であると言う事です。
これは最も難易度の高い技術と言われる船の熔接技術者から直接聞いた話ですが、「理論の分からない技術者は伸びない」そうです。
だから上手くなりたい方は本文の様な理論、議論は絶対に避けて通れないと思います。
本文は出来るだけ主観を抑え客観的視点に立って論じているつもりですが、どうしても筆者の生来の挑発的物言い,オチョクリが出てしまいますが、これは読者をより議論に引き込み考えを深める為と理解して下さい。
そして筆者の幼稚な理論及びこの挑発に同意するか、更にこれを上回る理論を思い付かず反発して撤退される方は、残念ながら客観的視点が薄く主観的視点が主体で論理性に欠けていると言えるのかもしれない、と一般意見はどうかは分かりませんが、筆者がそう考えるのは自然かと思われます(ここでも筆者は挑発しているが、語弊があるのでかなり抑え気味に書いている。ハハハ)
又物事を明確にし徹底的に理解しなければ気が済まない筆者の性癖で、人々の心理の内側まで分析している所があると思われますが、心理劇、参考になる人間一般分析論として読んでもらう事も出来るかと思います。
更に人生スポーツ以外の事で結果的に不本意な競争を余儀されていると日頃感じている人々にとっても、本文が何らかの参考になれば幸いです。

本ブログを読む順序
ブログとしては少し長過ぎるかも知れないので、心構えとして短い本を読むつもりで読んでいただければと思います。
特に前半の各種箇条書き表(1.a.b.c.)についてはそれだけでは退屈と思われますが、後半の文(d.以降)を読む事でその重要性が分かって来ると思うので、後半文を先に取り掛かって表と対比しながら読むのも方法かと思います。
ブログ末には筆者の周りの面白い人間模様を描いた<余談>人間模様観察記と、これはテニス関係者が対象となりますが「爽やか試合」を端的にまとめた「爽やか試合総括」を載せております。
尚ここでは①相撲、柔道、剣道(一本勝ち)の様に1ポイントを取る事で決める試合、勝敗、精神、競争性を「爽やか試合」、「爽やか勝敗」、「爽やか精神」、「爽やか競争性」②テニス、卓球、バトミントンの様に多数のポイントの集計で決める試合、勝敗、精神、競争性を「ネチネチ試合」、「ネチネチ勝敗」、「ネチネチ精神」「ネチネチ競争性」と定義します。
又この文中の「勝敗」の語句は特に表示しない限り「ネチネチ勝敗」を意味します。
尚筆者が強調したい部分は太字で表してあります。

目次  
 初めに
 「爽やか試合」の解説
  a.スポーツの分類及びテニスの位置付け
  b.スポーツの本質
  c.スポーツそしてテニスの動機  :自分が何故やるかと言う事を考えてみる
  d.スポーツに於いて「爽やか試合」「ネチネチ試合」の思想的比較 :「爽やか試 合」の理解
  e.スポーツ、テニスでの問題点 :事例の紹介と心理的分析
  f.解決法へ  :スポーツ競技者にとってプレー中必要な心理の考察
  g.プレー中の本質等の目標  :競技者の指針となる目標は何か
  h.テニスに於けるやり方の比較  :ここでは思考実験をやり比較検討する
  i.何故スポーツ―テニスをやるか  :特に楽しむ為が目的の心理等について
 終わりに
 <余談>人間模様観察記
   爽やか試合総括
 筆者の立場

1.「爽やか試合」の解説
a.スポーツの分類及びテニスの位置付け
 ・勝敗が無い―練習、ジョギング、スキー、体操、水泳、バッティングマシン、ロボットとテニス  
 ・勝敗が有る―対戦相手との関係の勝負では無い=排他性なし
          ―勝敗基準に絶対的判断基準が有る
           ―プレー同時性あり―陸上競技殆ど、競泳、スピードスケート 多少相手の影響あり
           ―プレー同時性無し―投擲競技、跳躍競技、ゴルフ                                          
          ―他人の評価に依る―体操競技、フィギャー、シンクロ、ダンス プレー同時性無し
          ―上2つの混合―ジャンプ  プレー同時性無し
       ―対戦相手との関係の勝負=排他性あり
          ―絶対的判断基準が有る(後からビデオ判定等で可能)
           ―プレー同時性がある
             ―個人競技―シングルス(テニス、卓球、バトミントン、相撲)
            ―準個人競技―ダブルス(テニス、卓球、バトミントン)
            ―団体競技―野球、サッカー、ラグビー、バレー、バスケット、アメフト
           ―プレー同時性なし―カーリング、ゲートボール
          ―他人の評価に依る―武道、ボクシング、レスリング 全て個人競技、プレー同時性

*この中でロボットとテニスだが囲碁将棋では既に実現しているが、未来予測では2050年には人間とサッカーが出来るロボットが出来ると言われているので、テニスでも実力段階、プレースタイル等を自由に設定し、判定とカウント等更にデータを解析しこちらのアドバイスもしてくれる自動判定機付きの代物が出来ると思われる。
そしてその様になった時我々は又テニス更にスポーツに対する考え方の変更を余儀なくされるだろう。
本文はその様な未来もある程度織り込んでいると自負している。

b.スポーツの本質   
・健康性=運動―心身の両者を含む―体の健康維持は勿論だが、ストレスの様な純粋な心的現象でさえ体を動かすだけでその解決になると言う最近の学説がある。
又予定されている運動(直接対戦相手が無い体操やジョギングの様な運動等、自己完結的運動)では頭の訓練にならず、予期せぬ咄嗟の運動=他律応答的運動(卓球、テニス、ボクシング等直接対戦相手且つプレー同時性の有る運動、スキー等の咄嗟の反応を迫られる運動、バッティングマシン、もぐら叩き等)が人間は必要であると言われている。
この手のフィットネス機器は現在存在しない → 製作会社は何か適当な器具を開発してほしい(例えばボクシング式パンチ繰り出し装置、簡単なボール発射装置)  
  
・良いパフォーマンス=いいプレー、ビューティフル、一種の芸術性、アート=この時は精神の集中=ギアを上げた状態―狭義では他人の評価+対戦相手なしの場合(フィギャー等)での見た目の美しさだが、対戦相手の有る武道等でも「技の切れ」等を問題にする種目もある。
これをもっと広義に捕らえ、たとえ外見としてビューティフルに見えない場合でも勝利に至る様な素晴らしいプレー、例えばイチローのわざと当たり損ない打法とか、ジョコビッチの体勢を崩しながらもとんでもない位置から位置へのパッシングショットとか、観客を魅了するプレーまで含んで考える。
これは勿論スーパースターだけの華麗な難度の高いプレー、ショットのみならず、基本に忠実な誰が見ても納得するプレーが前提である。
そしてテニス等はこれらは相手の生きたボールを相手と自分の位置関係によって打つショットであり、球出しの練習、ただ速いだけのショット等では駄目で試合の中でこそ生まれて来るものである。
例えばパッシングショット、頭上を越すトップスピンロブ等は相手を抜く技であり、相手の位置によっては月並みなショット又は相手のチャンスボールになる事もある。
又只単に速い打球だけではなく、スピード、打球の伸び、回転等の変化、嫌がる位置への返球等相手が有るゼロサムゲームでは相手の嫌がるショット≒自分がやられて嫌なショットの研究も重要である。
ジョコビッチのパスは魅了させるが、決まったと思った相手にとっては本当に嫌なショットであり、これだけで相手に複数ポイントの精神的ダメージを与えると思う。
但し排他性があるスポーツのジャンルでは、プレー以外会話、態度等で嫌がらせは絶対に不可で、その為に「爽やか試合」をやってる。
自分の嫌がるショットを 相手が綺麗に打てた時は、相手の研究熱心さとそれを打てる練習の努力を評価するのだ。
これがスポーツマンシップの本質だと思う。
一方トリッキーなショット、「イチかバチかのデタラメショット」との差異が問題になるが、勝敗基準が他人の評価でない種目ではいくら華麗なプレーでも勝利に繋がらなければ意味は無く、この区別は「プレー、ショットごとの必要確率」だと思う。

・自由性、闊達性、開放性―人間の基本的欲求=この時はある意味で精神の弛緩=ギアを下げた状態
遊びもこれに含まれ前述で勝敗競技の華麗なトリッキーショット(デタラメショットは問題外)を否定はしたが、スポーツに限らず何でも勝利等一つの目標に繋がる事だけで無く楽しさも一つの要素である。
長嶋のわざと大げさなプレー、帽子を飛ばしての空振り( 彼は写真写りが良いように わざわざ考えて空振りシーンを演出していた)、ウエストボールのホームラン、イチローのワンバウンドをヒット、錦織の又抜きショット、大相撲だって滅多に見られない大技はテレビでわざわざ取り上げられる。
そもそもホームランは大谷の例もあるが何故あの様に魅了されるかと言えばその華麗さにあるのであり、只勝つだけだったら日米野球でも分かる通りホームランよりもバント、単打等の「ネチネチしたやり方」である。
又「ネチネチ試合」は勝たねばと言う意識をずーと保っていなければならず、自由性を奪われた単純な利益追求と生産性向上が常に目標の仕事の様に感じられ筆者は好きになれ無い。→ 「爽やか試合」を推す理由
「ネチネチ勝敗」にがんじがらめになり自由を失って手が縮みダブルフォールト犯す人も見たくない。
常に一定の目的に強制されるのは嫌で時に自由に遊びたいのが人間で、「ネチネチ試合」及び正式試合とこの自由性、闊達性、開放性とは相容れない部分があると考える。→この点「爽やか試合」とは相性がいい
そもそも人間は精神の集中と弛緩の自由な切り替えリズムが創造性を生み出すのであり、例えばプレーの合間の会話(テニス以外の事でも)で脱線出来る事等も楽しみであり良いアイデアも出るものである。→ この様な考え方は常に真面目にやりたい不器用な人には不満で相容れないのかもしれない

・快適性―体を動かす事は気持ちが良い。

・闘争性―この中には後述の競争性、攻撃性も含まれるかもしれないが、一般的にはもっと上位の概念で人生にとっては必要な要素であり、むしろ自分との闘いも含み余り負のイメージは少ないと思う=ベストを尽くす。特に将来性ある若い人に期待 = ナダル

・競争性―①排他性が無い場合 同時性のあるものは競争性が前面に出るが、お互い独立事象であり、むしろお互いが切磋琢磨する関係になり易く問題は少ないプラスサムゲームである。
     ②排他性が有る場合=ゲーム性 他人との関係で勝者と敗者が生まれるゼロサムゲームなので問題が生じ易い。
     ここで競争性には「ネチネチ競争性」と「爽やか競争性」の2種類ある事を確認しておこう。

・勝敗性―競争性の①、②それぞれに勝敗性が付きまとう。
ここでまずスポーツの金科玉条、「この印籠が目に入らぬか」を書く―「勝敗は結果である」
すなわちこの本質は「ネチネチ試合」では他の本質と異なり、プレー中ではなくプレー後に結果として発生する。
➀の競争性に対応する勝敗についてはお互い独立事象であり余り問題はないと思う。
問題は②についてで対戦相手の力の差が大きい場合は一方的になり成立しない→ハンディ等の必要→後述「勝って優越感に浸る快感のみを求める」については常に一方的なのでそもそも競争性自体が成立していない→これはむしろ「他人の支配性」と言え、自由性、闊達性、開放性とは全く相容れ無いだろう
上の2種類の競争性に対応して「ネチネチ勝敗」、「爽やか勝敗」がある。→ 本文のテーマ

・形を変えた攻撃性、サド?―人類は闘いの歴史であり、それに因る双方の被害が出るのを避ける為にルールを決めて他人への攻撃心を昇華させようとしたと言う説がある。
原点と考えられる競技はボクシングで、グローブを取って素手になれば殴り合いの喧嘩と同じだからだ。
これに近い他種目も考えると、スポーツの分類からは対戦相手がある場合だが、注目すべきは勝敗の判断が他人の評価に因る場合が多い事で、体での対人対の関係と危険性を考慮すると第3者の判断の必要性が自然である。
これは野球等ではピッチャーのビーンボール等でその側面が出て来る。
この本質?については前半の健全の本質と相反し負の要素が強く異質である。

尚これらの順序は健全→負の側面及び老年の筆者が重視している順に並べたが、若い動ける人にとって闘争性は上位に来るべきである。
闘争性が下位にある理由:年寄りの冷や水すなわち可能性の消えた老人の痩せ我慢なんて誰も見向きもされないだけで無く、過酷な運動は健康にも良くない。

c.スポーツそしてテニスの動機(b.の本質と重なるが)
・健康、運動
・技術の研究、向上、完成、素晴らしいプレーをやりたい、見たい = 一種の芸術性、ビューティフル、アート                                              
・運動中後の快適さ → 後はビールが美味い
・他人との交流、会話
・闘争心、全力を尽くす事 → これぞスポーツの原点か?= ナダル
・スポーツの技術面精神面を検討発見する面白さを追求する為自分もやる → 深く考えそれを書き留めると色々の新たな発見がある → もっと発展させたいので是非批判を = 筆者                    
・勝敗 → 若い人―やる人で無い人はおらずむしろこれを如何に克服するかが最大の問題                  
       老年の人―もう人生散々経験したじゃないか → もう一寸別の価値観も見たら?
・強打をぶつける等攻撃性の開放、サド?=スポーツの原点? → 強い人はボクシング?/怪しげな世界も          
・他人をからかいおちょくる楽しさ、ヤジ、 → 当然ここには限度がある そして相手にも由る
・自分のプレーが他人受けする楽しさ、ギャラリー性 → あればプロか?= 長嶋、新庄=サービス精神横溢
・相手から強打で攻撃される快感 マゾ? → 怪しげな世界の方がいいかもしれない    
・只強打 → バッテイングセンター → 野球の張本は「スポーツの本質は静の中に動があり、動の中に静がある」と言ってた → これは100m競技はスタート、野球バッターの待球姿勢の静寂の中にもう既に動が内包され、一方逆は剣道の竹刀を止める動き、テニスボレー、 体操、 フィギャアー、シンクロ等の静止状態だと思うが、スポーツの本質は只強くて速い事だけではない
・収益性 → 勝敗にマージャンの様に賭けを提案した奴がいた
・勝って優越感に浸る快感のみを求める = 勝てる相手としかやらず相手が自分より上になった途端止めてしまう人がいる = これは前述の勝敗意識の極端に歪んだ型? → 他人と比較する事は自己確認する為に必要だと言う事は認めるが → あなたはこういう人とプレーをやりたいか? 
・他人の不幸を喜ぶ? → 相手のミスに手を叩いて喜ぶ人がいる               
・他人の精神的弱さ脆さを眺めを楽しむ残虐な感情 = 手が縮みダブルフォールトおかす人等に対して抱くかも知れない感情  = 屈折したサド? → スポーツは健全性の世界だ → 他のジャンルで

d.スポーツに於いて「爽やか試合」「ネチネチ試合」の思想的比較
それぞれに繋がる項目を挙げる
「爽やか試合」―相撲、柔道、剣道一本勝負等の正式試合、一騎討(やあやあ我こそは勝負)、真剣勝負、決闘、一発で決める思想、背水の陣、退路を断つ、旧日本軍が志向した決戦思想 → 「爽やか精神」
「ネチネチ試合」―テニス、卓球等殆どの正式試合、近代型総力戦戦争、日大アメフト部思想、長期戦、「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し」(家康)の思想 → 「ネチネチ精神」

「爽やか試合」に繋がる項目を検討すると何れも日本その他の伝統的思想に行き着くのでは?
やはりスポーツは潔さを宗とする武士道精神=「爽やか精神」が相応しい。
又「爽やか精神」は今ある行為に没入する=一球入魂と言う仏教禅思想にも通ずると考えられる。
以上から「爽やか勝敗」とは一発で終わってしまうので、積極的にリスクを取る「積極的勝敗」にも繋がると総括も出来ると思う。
それに対し「ネチネチ精神」は個々の勝敗よりトータル、長時間で勝てばよいと言う考えではあるが、短時間スポーツ競技の世界等では後述の様にトータルで結果的に「爽やか精神」に負ける。
テニスに於ける「爽やか試合」の位置付けは正式試合形式ではないので練習に属するだろうが、その真剣性等を考えれば「ネチネチ試合」よりも上記の様に余程高い対決性=試合性それに伴うゲーム性=爽やかな楽しさがあり、試合でもあり練習にもなると言う2重性を持つと考えられる。
尚これは一般常識だが、人間のやる事全てで「ネチネチ精神」の無い人で上手く行った試しは無く、相撲、柔道、剣道等では試合は「爽やか精神」を標榜はしているが、裏ではネチネチと努力を重ねているのを忘れてはならない。
何故人間は爽やかさを表に出さなければならないかと言うと、この暗い世の中せめて健全性が売りのスポーツの世界は明るくなくてはならないと言う事であると思う。
日大アメフト部思想であるがこれは監督、コーチも参加したプロレスの様なジャンル外の場外乱闘と考えれば理解出来るだろう。(テレビ画面上の内田監督、井上コーチ等への前述「屈折したサド」を感じた人もいたかもしれないが、これはもはや健全性が売りのスポーツのジャンル外なので許されるのかも)
このケースでは武力?による実力行使では無く、言葉に因る心理戦、事前取引、セクハラ、恫喝等と言う手もあった。(ペンは剣より強し、笑い)

e.スポーツ、テニスでの問題点
直接対戦相手との関係で勝敗が決まら無い場合は外国のドーピング問題等を除いて、日本では嘗て国家の威信を背負った円谷自殺問題等有ったが、今は自由で伸び伸びの時代で余り問題はないと思う。
やはり一番難しい問題は②の勝敗をどう扱うかと言う点に尽き、勝敗に拘る余り「勝敗は結果である」と言う事を忘れ、スポーツの他の動機や本質も忘れる事例がしばしば見受けられる事である。
日大アメフト部問題は日本の勝利至上主義の一端として社会問題化したが、我々日常の軽スポーツの世界でも同じ事態が頻繁に発生している。(予備軍も)
そしてスポーツをやる人はこの勝敗と他の動機、本質等をめぐり、その感じ方及び考え方の相違に因って、スポーツに対する態度は分かれて来ると思われる。
従って本文はこの点を中心に据える。

トップアスリートで「勝ちに拘る」と言う言葉を耳にするが、これは多分直接対戦相手との関係で勝敗が決まら無い種目で諦めない=全力を尽くすと言う意味で使ったと思われ(北島康介なら考えられる)、勝に拘る事が他人に影響しないので問題は少いと思われる。(ゼロサムゲームに対しプラスサムゲーム)
一方相手のある競技では、競技に参加する人誰しもが大なり小なり勝敗を考えない人はいないのだから、勝利至上主義の反省の為にもむしろ勝敗に拘るのは悪だと言い切った方がいいと思われる。
但し団体競技例えば野球等では投手とバッター等の対決局面等を除いて、個人の責任が希釈化されるので問題が少なくなる事もある。(責任性大→小=シングルス→団体)
相手のある個人競技等でフェデラーやジョコビッチが「勝ちに拘る」等と言う発言は考えられないだろう。
相手があると言う事は記録の様に絶対的尺度では無く勝敗は一方と他方の関係で決まる訳で、特に個人競技等では心理が絡み微妙な問題を孕んでいる。
そもそも相手のある全ての競技は、相手の嫌がるプレーをする事にあり、対戦相手をイラつかせる部分を本質的に包含している。
だからその間の調整を闘争性が前面に出るラグビーではノーサイドと言う考えを持ち込み、日本の武道では道と言う言葉で一種の精神修行として消化している。
スペイン等では子供の内から勝敗は結果だと盛んに教え込むのもそれである。

・勝敗に拘る事が他人に与えるテニスでの弊害例
これらは殆どダブルスの試合で発生していて、これは排他性ある競技で個人の責任性が丁度中間の位置(シングルス→ダブルス→団体)にある。
理由を考えるとシングルスは2人だけなので実力差がはっきりし、嫌なら止め、続ける為には負けを甘受もしくは強い方が忖度テニス等で簡単に解決出来るのに対し、ダブルスは俄か作りのパートナーとの責任の分担が曖昧のまま対戦しなければならず、中にはボディ、足元へのショットが嫌だとはっきり言う人等もいて(ダブルスでは足元への打球は決め球であり、この発言はどうしても勝敗を着けなければならない「ネチネチ試合」とは明らかに矛盾)、忖度するにも人間関係が複雑で簡単には方程式の解が見つけられない事にあると思う。
ヨーロッパの日頃のテニスがシングルスのみでダブルスをやらないのもその辺に理由がありそうで、考え方に由れば弊害例の彼らも日本の責任曖昧集団主義の犠牲者なのかも知れない。
筆者はヨーロッパを通算1年以上歩行、自転車走行旅行をやって、途中たまたま少なくとも10か所以上のテニスクラブを見て来たが、ダブルスをやっているのは一度も見たことがない。

「勝って優越感に浸る快感のみを求める」については前述説明で十分だろう。
試合中に相手のミスに手を叩いて喜ぶ → プロの試合で相手のナイスショットに手を叩くのは良く見るが → ここまで勝利に飢えているのか?
負け試合後自分の事は棚に上げてペア相手に負けた不満をぶつける人がいる。ペア相手の一人は以後来なくなった → 「ネチネチ試合」はつい全体を考えてしまうので勝敗に拘ってしまうのではないか? 負けた場合全人格を否定された様な気がするのではないか?心理的重さ → 「ネチネチ・・」の名称の起源
判定を巡って切れる人がいる → 勝敗が切れる程そんなに重要な事か?
負け続けると他のグループの  子供にまで当たる人がいる。 後ろにボールを取りに入っただけの事なのに、 ルールを盾に 強行に迫り、余り怒られた経験のない子供たちは怯えて 萎縮してしまった。 そのくせこちらが構える前に サーブを始めたので注意したら 逆上した。 自分はいい、人は悪いじゃルールが二重基準だ  → すなわち八つ当たりを抑えられない → 本人の精神年齢が子供だから同類忌避をするのか? → 彼にとっては神聖な「ねちねち試合」だから分から無い訳ではないが
その彼は試合に負けて怒って家に帰ってしまった事があった。
試合中に相手にプレッシャーを与える様な事を言う人がいる。→ 何をやりたいのか?テニス?議論?その他面白い話だったら是非やりたい。
相手のドロップショットに怒る人がいる → 不真面目と受け取るのか? → 相手のショットに注文を付ける行為とカウントを数える行為は明らかに矛盾している
筆者は良くやる攻撃されたボールをバトミントン、卓球の癖で咄嗟にネットギリギリやネットインでしばしば放り込むのを怒る → カウントを取る以上これも実力の内だ → 上と同様これも矛盾してる → ネットインは卓球では謝るがバトミントンでは謝らない → テニスは卓球と同じ扱いか?
我々の「ネチネチ試合」は自己判定が必要なので、つい自分に有利な判定になってしまう事がある。→ まあ人間だから仕方が無い事だろう

これらの行為は筆者の知る限り2人以上いて、多分そんなに珍しい現象では無いと思われ、これらを他人事と笑う前に、我々は利益を考えて口や行動には出さないが心の中で多かれ少なかれ抱く潜在的感情だと言う事を認識する必要があるだろう。
この勝敗に拘る姿は良く言われる老人のゲートボールシーンが想起され、一般には惨めだと忌避される。
尚これらの行為を一般には不快で哀れだと受けとめられるから筆者は弊害としたが、アンケート及び人間観察からはこれらの評価はどうも相対的な物の様で、たまらなくなって逃げ出した人がいる一方で、世の中には所詮他人の事であり自分には関係無いのでどうでも良いと感じる一群の人たちも存在する様である。
中には飽きもせず毎日1日6時間以上も試合をやり、頻繁に公式試合に出ているのにもかかわらず、トッププロの試合その他について、テニスをやる人は勿論、一般人でさえ興味を持つと思うのだが、所詮他人事として捉え興味を持たない人もいる。(遠い世界の事に我々の実力を考えれば彼は正しい → 尤もこう言う人ばかりだとプロスポーツは成り立たないだろうが)
又この様な人たちにとっては本文の様な内容はぴんと来ない様で、これは多分区別の意識が希薄で試合―競争と言うものの捉え方、感じ方が異なっているからだと思われる。
だから彼らは他人が弊害と感じる様な一般的感じ方を理解せず無頓着時にはノー天気で、何も考えない限り色々な局面においてしばしば周りから浮き上がる原因になる。(人間を差異を決める最大要素は何を感じるかすなわちセンサーと言う事だろう。 感じないんだから分からんと思うが、フェデラーやジョコビッチが相手の失敗に手を叩く行為等を観客がどう思うかを想像すれば頭では一応理解出来るのではないか?)

ここまでは勝敗意識が他者に与える影響だが、自己にもマイナスに作用する。
およそ勝敗意識なんて努力をする動機にはなるかもしれないが、プレー中はプレッシャーになりパフォーマンスを落とすだけで百害あって一利なしである。
自分に有利な展開をしていて、勝ちが見えて来ると途端に意識して、逆転負けを食らうというのは良く目にするところだ。

・勝敗を考える事が自分に跳ね返って来るテニスの弊害例
2ndサーブでミスを恐れる余りプレッシャーに負け手が縮こまりダブルホールトを犯す人がいる。→ 2ndサーブでも理想確率は100%ではない→この様な姿は対戦相手とはいえ哀れで見ていられない(先にも書いたがこれを哀れと感じるか感じないかは相対的である。筆者の知る該当する人は2人いて、筆者でさえ1人は上手いので余り感じず、1人は下手で且つ一連の弊害行為との合わせ技でそう感じたのだ。これは脳障害で倒れる前の話)
チャンスでスマッシュを選択すべきところでミスを恐れて繋いでしまう等勝敗を考えてプレー全体が消極的になる→力加減の限界を知る為に敢えて自由に伸び伸びと大胆なプレーをやり、且つ失敗を恐れない癖を付ける必要がある→実力を付けるのに必要

ここでこれら表面に現れた弊害例を参考にして誰しもが持っている潜在的心理について考察する。
まず彼ら(他人の事として笑えない、我々も)の特徴的性格としてまず真面目、性格が単純な事、非融通性、硬直性、固定観念に忠実等スポーツの本質で挙げた自由性、闊達性、開放性等の要素が余り感じられない事等が挙げられる。
これらは仕事等の一般世界では評価される特質?なのかも知れないが、スポーツはプロでもない限りどうしてもやらなければならない世界では無い。
それと余り物を考えない、広い視点が無い、住んでいる世界が狭い、自分の矛盾に気が付かない、自分を反省しない、幼児性を残している等の傾向(我々も何れかに該当)も見受けられる。
従って彼らは(我々も)一旦重い「ネチネチ勝敗」と言う目標価値基準を定めると他の基準が目に入らなくなる傾向、又自分が置かれているシチュエーションを忘れる傾向がある。
だから弊害の1人だが負ける事が多いのにもかかわらず(こちらも忖度テニスを適当にやってるのに)、既存のルールにネチネチと忠実で試合は「ネチネチ試合」しかないと言う固定観念に囚われ、新しいルール「爽やか試合」を提案すると激しく拒む → 前述の負けた時の混乱ぶりを考えれば、拒まない方を選択した方がいいと思えるのだが → 人間は矛盾した存在である → そして周りの鈍感さに由る放置が提案の拒否認容に繋がり、幸いな事に筆者は立ち合わなかったがそのまま過酷な「ネチネチ試合」を続け、遂に試合中に日常生活にも不便を来す決定的な脳障害が訪れる(精神的状況のみならず肉体的にも哀れになってしまった訳だが、起こった事は不可抗力でありただ気の毒でこれを追求はしない) → 普通は他人の目もありここまで自分の気持ちをそのまま率直に出すのは憚られると思うのだが(失態を演じてまでも勝てない。たまに勝った時の喜び様には気味が悪い。余りにも哀れで、筆者だったら勝敗なんかどこ吹く風と言う態度を取るか笑って誤魔化す。よくよく考えたら結局これは一種の美意識の問題でもあると気が付いた。美意識とは衣装でも化粧でもそうだが自分の姿を気にすると同時に、他人の評価も気になると言うことである。彼はまず自分の無様さが気が付かず気にならず且つ自分の行為が他人にどう受け取られるかと言う視点が無い。一般には「みっともない」と表現される。(どうだ、この美意識と言う見方は斬新だろう。美意識は比較的高等な人の精神活動ではあるが・・・。多分こう言う感覚は人間持って生まれた感覚であり年齢は関係無く、後からは修正が効く物では無いと思う。)、この弊害の様な行為をおかしいと感じ(尤も周りの美意識も彼と似たり寄ったりなのだろう。余り彼に対して哀れと感じていなかった様だ)、彼の精神の内側に踏み込んで考える必要があった → (所詮他人の事で本人が望んだんだから余計なお世話じゃねーか) → 当事者たちの中には古い付き合いの同士だったのにもかかわらず(「N社血の結束」) 、事件後のレビューから目を逸らし逃げる奴がいる(筆者は事実から目を逸らして逃げる態度を 「情報に対する自閉症化」 と名付けている) → 本当に結束があったら彼が憐れに陥るのを見過ごせないはずだが。
と言う事でこんな社員たちを抱えていたからガラバゴス化し、ネットではGAFA,中国ネット大手等、ハードでは韓台のTSMC,サムソン等に後れを取ったのだと筆者は妙に納得しているのです → 偏見だ。何か別の恨みでもあるんじゃねーか? → いえ ただ日本の産業を論じているだけです。はい
つまり彼のテニスに対する弊害的態度(余りにも大人げないので表に表さ無い我々は周りを見て自分の利益を考えている)はその人が持っている本来の性格が反映していると言う事なのである。
これは人間の社会と全く同じで、いくら精神論等を唱えて人間に訴えても、人間自体は基本的には変わらず変われず、結局法律等で外側から縛って変わらざるを得ない様にするのと同じだと思う。
又所詮ルール、取り決め等と言う物は最近の国際会議等みてれば分かる事だが、いかに皆を納得させ合理的でより良く、おまけに自分に有利な物にさせて行くかの戦いであり、その意味で絶対的な物ではない。
テニスータイブレーク式だってゲーム式の反省から後から作られた物である。
兎も角試合は「ネチネチ試合」しかないと言う固定観念に囚われてはいけない。
そしてもしやり方を少し変えるだけ=「爽やか試合」で今までと同様にプレーが楽しめて、彼ら(我々も)勝敗中毒(予備軍)に陥らないで済むならその方がいいに決まっている。

子供の話が出たところで えーここで一席  題して大人になるための教養講座

やだ ねえお母さん 僕あっちゃんって嫌い お母さんも嫌いでしょう
お母さん お母さんはいつもやだちゃんの味方よ いいわよ 嫌いになってあげる
       ーーーーーーー
やだ ねえねえふーちゃん 僕あっちゃんが嫌いなの ふーちゃんも嫌いでしょ
ふー ・・・・
やだ たくさんの人嫌ってるよ お母さんも嫌ってるもの
       ーーーーーーー
やだ  ねえねえしーちゃん あっちゃん嫌いだろ
しー やだちゃん嫌いって言うけど 僕は嫌いでないし・・ もし出来ればなぜ 嫌いなのか 理由を説明してもらえれば 助かるよ
やだ  理由なんてないの 僕嫌いだから嫌い!
       ーーーーーーー
先生 あらやだちゃんどうしたの 浮かぬ顔して
やだ しーちゃんって嫌い 僕の気持ちちっともわかってくれないんだもの
先生 一体どうしたの
やだ しーちゃんにあっちゃんのこと嫌いだろって言ったら 理由を説明してくれって 言われちゃった しーちゃんって何であんなに物分かりが悪いんだろう 沢山の人があっちゃん嫌ってるのに
先生 そんなにたくさんの人が嫌ってるの
やだ ふーちゃんは何も言わなかったけど お母さんだって嫌ってるし しーちゃんうんて言ってくれないし  僕もうしーちゃんと遊ばない
影の声 沢山の人に同意してもらいたい様だけど 沢山かどうか確認するなら皆に好きか 嫌いか聞いて回るのがいいのかも
先生 それはやだちゃんが間違ってる やだちゃんも大人になったら分かるけど 人を納得させるならちゃんと理由を説明しなければならないのよ そうでないと同意を求められても感じ方の違う相手の人は困ってしまうの 正式には説明責任(アカウンタビリティ )て言うんだけど  だから 理由がはっきりしない人の好き嫌いは 大人は余り人に言わないものなの 特に嫌いな人のことはね そんなことを人に話したら相手に同意を求めてるいるとしか受け取れられないのよ
やだ そっかあー  僕ももっと勉強して賢くなろっと
先生 やだちゃんは本当に物分かりが良くって いい子ね  しっかり勉強して立派な大人になってね。 ところでやだちゃん やだちゃんは今年何歳になったんだっけ
やだ おっと もう70過ぎた 

f.解決法へ
それでは誰でも意識する(筆者も当然)自己の勝敗意識とどう戦うか?
世の中でどんな事でもそうだが先ず一番大事で真っ先に来るのが大局観である。(着眼大局着手小局)
テニスの試合においても上達し勝つ為に先にネチネチと考えなければならない事は、全体を考えてどう練習し試合をどう組み立てるかがプレー外の目標である。
が一旦プレーが始まると全体を考えると言う事は結論即ち勝敗を意識する事に繋がり、これは余程実力差のある相手以外は前述の様に不利となる。
即ちプレー外OFF時は十分な思考検討=「ネチネチ精神」思考=巨視的視点、プレー中ON時は目先のプレーに集中=微視的視点と言う事だろう。
以上からプレ―外OFF時はどう考えても自由で問題は無いが、プレー中ON時はどうするかについては根本の「勝敗は結果である」に戻って考える事が必要だと思う。

人間の様々な活動においてこの言葉は全く違った全く異なった意味を持っている。
例えば仕事等の物事を推進する場面においては、まず結果を考えそこから逆算して方法、予定等経過を考えるのが一般的である。
「勝敗すなわち成功失敗は結果である」と言う表現は当たり前の事であって、何ら意味を持たない。
ここではやはり結果が重要であり、過程、経過は失敗体験等次の参考になる事もあるが、その物は目的では無い。
次の例として戦争等の場面を考えると「勝敗は結果である」と言う言葉は当たり前の事ではあるが、事の重大性を考えると余りにも非情過酷な表現である。
ここでは経過、結果共にテロリストでも無い限りその活動自体いかに避けられるかと言う事が重要で、両者共に目的にはなりえない。
上記2者は一旦始まってしまえば全体すなわち結果を常に考えながら動く事が特に重要である。
そして肝心のスポーツについて考えてみる。
ここでは観戦者と実践者を分けて考える必要がある。
観戦者だがこの言葉の意味は仕事等と同じで余り意味を持たない。
ここでは経過を楽しむのも一つだがやはり結果も気になるのであり、両者共に目的と言う事であろう。
問題は我々実践者の場合だが、この言葉は実践者に対して勝敗に拘る事への戒めであり、最初に書いた通り誰しもが一応納得する金科玉条である。
この言葉の真の意味を考えると勝敗と言う結果がよりもそこに至る過程、経過が重要であり、これは実践者はプレーする事その物が目的である事を考えれば極めて当り前の事であり、その点が前出人間活動と異なる。
他には過程、経過の重要性は音楽、旅行等いわゆるプレーを楽しむ系にも共通して当てはまるし、又スキー等で競技としてやる一部の人を除いて、一般人はパフォーマンスその物及び技術上達を目ざしてやるのと同じ事だと思う。
そこで「スポーツの本質は観戦者でも無い限り実践者はプレーする事その物にある」と言う言葉を第二の金科玉条とする。
そしてこの言葉を前述の弊害例で考えてみると双方の弊害もさる事ながら、問題の人たちの結果しか見えない行為はスポーツ実践者の本質から逸脱していると言う事なのである。

以上から実践中は目標を一番最後の結果である「ネチネチ勝敗」では無く、試合中の1ポイントごとの「爽やか勝敗」におくべきであり、「爽やか精神」を習慣付けする為にはカウントを取らない事である。
すなわちここで「勝敗は結果である」=「爽やか精神」と断定していいだろう。
試合の流れ等関係が無い短期勝負の公式試合を目指す初中級レベルの人は、メンタルギアを上げて1ポイントを取る訓練「爽やか試合」を連続してやるのが上手くなる良い方法だと思う。
何故ならば人間は日頃の同じ作業を繰り返す事に因り習慣化し、心の方もそれに付いて行く様になるからである。(「考えが言葉になり、言葉は行動に、行動は習慣に(=「心性の習慣性」と筆者は名付ける事にした)、習慣が人格になり、人格は運命を形作る。」元英首相サッチャーの言葉だそうだ)
そして実際の短期決戦の公式試合では、日頃のギヤを上げた「爽やか試合」の習慣をひたすら思い出し、最初から最後まで手を抜かず1ポイント勝負=「爽やか精神」に徹しプレーする → 勝利に一番近い方程式だと思われる。(こうする事で迷いも無くなり心理的に安定する)
ここで試合の流れや駆け引きの類はどうするかだが、前述の様に試合中は全体を考えては駄目で、これは試合の外で考える事である。
全豪優勝時の大坂なおみでさえマッチポイントを相手に握られた時、作戦も駆け引きも何も無なく唯深いボールを打つ事だけを考えたと語っていた。
ここで結果に拘る事の他の一般弊害例を挙げる。
良く出る例として一本橋走行を100mと1mの高さでやる場合、普通の人は動作の違いが生じるが、鳶職の人は違いが無いのが挙げられる。
すなわち普通人は落ちると言う結果を考えてしまうからだ。

「心性の習慣性」について
他人と比較して勝敗が決まると言う事が表に表す表さないの違いはあるにせよ、他人の不幸(ミスショット、ボールのアウト、ホールト等)を望むのに繋がるのは人間の自然な心性である。
そして人間の心性と言うものはどうも習慣性がある様で、日頃「ネチネチ試合」ばかりやって他人の不幸を望む心性の癖が付いたり(手を叩く)過剰にボールのin-outを気にしたりすると、恐ろしい事にどうも日頃の練習時でさえそうなる様で、例の哀れな人にそういった現象が見られた。
例えばいくら親しくなっても他人はあくまでも競争相手の様で、相手が向上するような助言は決して言わない。(そんなケチな精神でどうするんだ!)
又例えば入る入らないは余り関係が無い乱打の練習時でさえ、アウトしたボールを打たず、いい練習になるので続ける様にボレーの提案をすると拒否する。(筆者はこれを頻繁にやった事に由りドライブボレーを決め球にする様になった)
試合と練習の心の切り替えが出来なくなる、つまり練習も彼にとっては他人との競争になってしまう様なのだ。
これは哀れな人のみで無く、我々も人事では無く知らず知らずの内に陥ってしまう現象で、結局原因は何も考えない事(ひょとしたら感じる事=センサー)が原因だと思う。

g.プレー中の本質等の目標
ならば何の本質をプレー中の原則として考えたら良いのだろうか?
ここで前述表の様々なスポーツの動機、本質を引き合いに出すが、やはり勝ちに繋がる広義の「良いパフォーマンスーいいプレー、ビューティフル、一種の芸術性、アート」を中心に据えるべきだと思う。
筆者は一旦これらのパフォーマンスが実際に出来た時の爽快感、満足感を味わいを理解すると、「ネチネチ試合」に勝った時より喜びは余程大きい。
それとテニスの新しい技術その物の検討し実践してみるのも面白い。(技術の達成感)
老人のゲートボールシーンが惨めな状態に陥ってしまうのは、テニスと異なり過程、経過に多様性複雑さ面白さが無く、勢い結果重視になってしまうからだと思う。
加えて特に若い人には闘争性を特に期待し、熱の籠ったプレーをしてもらいたい。

ここで主原則の勝ちに繋がる広義の「良いパフォーマンスーいいプレー、ビューティフル、一種の芸術性」について検討する。
これの実現の為にはカウントを考えて消極的になる「ネチネチ試合」よりもこれ一本にかける「爽やか試合」の方が会っている。
「爽やか試合」で勝敗に拘る意識を解放し、力加減の限界を知る為に敢えて大胆なプレーをやり、且つ失敗を恐れない癖をつける。
一流コーチが「ミスも納得出来るミスと納得出来ないミスがある」と言ってるが、これはこの基準での積極的ミスは許されると言う事を言ってると思う。
具体的には例えばチャンスで積極的に狙って行ってのミスは許されるが、ここでの消極的なプレーは駄目と言う事だろう。
どんな上級者でもプレーの達成確率は100%では無く、必ずミスは付き物だからである。
但し注意しないとテニスを知らない初心者等は一か八かのデタラメショットに陥る危険性もある。
これはボールコントロールと言う観念が無いのが原因で、これを防ぐには相手の所に返す乱打をやらせるのがいい方法である。
そして筆者がこの基準に基づいて「爽やか試合」シングルス―大胆なプレーをやって考え着いたのが前述「プレー、ショットごとの必要確率」と言う概念である。

「プレー、ショットごとの必要確率」
具体例として2ndサーブを挙げる。
態度
1.相手の攻撃に目をつぶって、ミスを期待して弱くてもいいから兎も角入れていく
2.相手の攻撃を受けるより、こちらのミスを恐れず思い切り打つ
まず試合に対する以下の考え方の相違で、一義的に態度を決めるのは難しい
a.兎も角勝つことを優先する
b. 勝敗は結果と考えて自分が良いショット、プレーをする事、すなわち試合内容を優先する
a.の場合
しかしこれは1.2.どちらが最終的(ネチネチ)勝率が高いかに由って自ずから決 まって来る
すなわち相手の攻撃力すなわちリターンの確率と自分のサーブの確率に由る
一般的に相手が高くこちらが低い場合は2.を、逆は1.を選ぶがいいだろう
両方高い場合、両方低い場合はカウント等に由るだろう。
上の場合は決まらない訳だが、以下の様な計算はサーバー次第の問題なので、相手に関係無く成り立つ
ケース
1stサーブ確率:70%
2ndサーブ確率:90% とする
思い切り打ってのサーブの確率は 70%+残り30%X90%=97%
これはダブルフォールト(レシーブ側が1ポイント獲得)の確率は僅か3%である
1セット6ゲーム先取で1ゲーム取るのにジュース一回やるとして8ポイント、6ゲーム先取で6ゲーム分サーブをやるとして8X6=48回サーブ48X3%=1.5回/セットでダブルフォールトは1セットに付きせいぜい1~2回である
尚この計算の考え方は、個人個人の才能と努力の結果のサーブの確率で大きく変わって来る事は言うまでもない
b.の場合
弱気で負ける場合と強気(イチかバチかのデタラメ打ちは問題外)で負ける場合、後自分がどう感じるか又成長があるかどうかであり、これはもう2.の選択であろう
このケースの場合が必要確率の概念でこれはショットごとに必要確率の値は異なり、公式試合等の「ネチネチ試合」で必要確率以下のショットは場面によっては使えない。

この考えに従えば50%以下の打球(一か八かのデタラメショット等)に対し相手は何も反応しなくていいし(対処する必要が無いから練習にもならない)、チャンスでの決め球のミスはある確率で発生すると考えれば動揺する事は無い。
尚一般に確率は高い方がいいと言うのが常識だと思うが、競技に由っては以下の様にそれが必ずしも当てはまらない事もあると考える。
昔巨人に関本四十四というクレバーなピッチャーがいた。
彼が無四球完投をして帰って来た時、報道陣が「ナイスピッチング」と声を掛けた所、「80%の出来だ」と彼は答えた。
理由はと聞いた所、答えは「フォアボールが2球程足りなかった」だった。
野球の場合適当に荒れていると言うのが良い状態であると言うことはあるにせよ、テニスサーブの場合も考え方に由れば適当な回数ダブルフォールトをやるのは、攻めている証拠ではないだろうか?
あのジョコビッチでさえダブルフォールトをやらない訳では無い。

但しこの考え方が適用出来るのはこちらが攻撃モードせめてニュートラルモードの時で、守備モードでは全く異なったマインドが必要だと思う。
守備モード時のマインドは余裕度の無い順に①あのキング夫人でさえそう言ってるが第一に取り敢えず相手コートにボールを何処でもいいから返球する(ここでバトミントン、卓球の様に、咄嗟の反射的反応でネットすれすれorネットインを出せれば、こちらがうっちゃり決定打となる) ②次にセンターセオリーで深く打って(ボレーされない様にゆっくりしたスライスか山なりの軽いトップスピン)こちらの時間を確保する為取り敢えずニュートラルモードに戻す ③更に余裕でパッシングショットorトップスピンロブだと思う。
そして状況を敏速に判断して隙あらば=こちらの余裕が生まれれば直ちにマインドを攻撃モードに切り替える(これは完全な打倒だけで無く、少しでも有利な状態、チャンスボ−ルを引きだすに持って行く=自分から仕掛けて行くも含む)のが勝負だと思う。
良くミス待ちテニスに付き合ってイライラして負ける人を見かけるが、上記の事を実行する必要があるだろう。
それに対し「おばさんテニス」等の付き合いテニスをやりたいのなら、ニュートラルモードを延々と続けると言う事だろう。

ここからはついでに少し脱線しプレー中の攻撃モード=自分から仕掛ける場合のマインド等について筆者の考えを述べたいと思うが、大して上手くもない筆者の意見なので話半分に聞いてもらいたい。
まずここで相手よりも一球でも多く相手コートへ返す事が目的のテニス、卓球、バトミントン等の競技の共通認識を確認する。
上手い人は必ずしも狙い場所を見ている訳では無く、コートの位置的認識像が頭の中にあって、その中に放り込んでいるだけだと思う。( 当たった後は感覚だけで 目をつぶってでも入れられるだろう)
だから上級者はボール,シャトルの空中の飛び方を見て、ギリギリのin-outが判断出来るんだと思う。
認識像については①後ろ横はベースライン、サイドライン、②前の方はネットの高さの2つに分類され、強打、逃げショット等は①を、ドロップショット系は②を狙って常に意識して目標を頭の中で切り替える必要があると思う。
打球感覚については、当たる前は相手の打球に応じて臨機応変に瞬時に打法を変え(こちらから仕掛ける場合は余裕のあるので最初から決めて変えない場合が多い)、当たった後は出来るだけボールの接触時間を長くして当たった時の感覚をフィートバックして、ラケット角度とフォロースルー(テニスは前への体重移動とジャンプが加わる)で認識像の中に入る様に修正して行く。
だから多分この頭の中に位置的認識像と、打つ時の微調整修正能力のない人は上手くならないだろう。
次に自分から仕掛けるとは今までの打ち合っていた打球パターンを変える事、即ち①打球のスピード、伸び(止まる場合も含む)、回転の変化 ②コースの変更と定義したい。
そし仕掛けると言う事は、後のフィードバックに由る修正である確率で放り込める自信があるからこそ、安心して強打等が出来るのだと思う。
又攻撃=チャンス、守備、ニュートラル3モ−ドであるが、状況が同じならモ−ドは一般的には決まって来るだろう。
例えばサーブレシーブはテニス、卓球では攻撃ーサービス側、守備ーレシ−ブ側、バトミントンでは真逆が従来の一般的通説である。
しかし固定観念に捕らわれる必要は無く、卓球ではチキータが発明された事に由って攻守所を変えた状況になっている。
又人に由って同じ状況でも当然差があり、例えばジョコビッチのパス等は一般的には追い込まれた状況だが、彼にとっては逆にチャンスと捉えているのだろう。
これは長嶋やイチローの悪球打ちは有名だが、彼らには独自のストライクゾーンが有るのと同じだろう。
だからセーバーをやる時はレシーブはチャンスと思わなけばならない。
筆者は老化の目の衰えからラケットの打球点をしばしば外し、意図しない異質な回転球になる機会が増えたが、ベースラインに狙い場所を決めるだけで、これはナチュラル変化球の仕掛けになると気が付いた。
対戦相手がある競技が相手の嫌がるブレーをやる事なら理想的プレーだろう。
何れにせよプレー中は自分が何れのモードで状況はどうかを常に意識し、それに応じたプレーをする事が重要である。

ここからはやる目的として技術の研究、検討、向上を挙げたが、筆者の蘊蓄を少し書きたいと思う。
但し再度書くがこれらは筆者の実力程度から考えた事であり、上級者には笑われるかもしれない → 初級、中級の人には当てはまり参考になると信じる。
バトミントン、軟庭、特に卓球をそのままの応用、時にはバッテイング、投球の技術、思想を参考にして、攻守共に新しい打法を研究するのも面白い。
卓球のペンホルダーフォアハンド自体はウエスタングリップフォアハンドにラケット角度が近く、ボールを体に近い位置で抱え込んで打つ為、相手の強打に負けず(セーバーに最適、内側に食い込んで来る左利き打球にも強い)、又余裕がある場合卓球の様に相手に分からない様に手首、リストを使って手元で微妙な回転の変化を付けられる。
又卓球はトップスピンを多用するが、相手が前に出て来た時等に卓球式打法の足元への回転数の多い打球は、ボレー対策に最適である。
卓球台上のバックシェークハンドでリストをきかせて鋭く振る打法があるが、そのままでは力負けしてテニスでは使えず、これと左バッターが最後のホロースルーを右手一本で持って行くのを参考にして、最初両手で後左手を突き放せば、強力なバックハンドになる。
これは両手打ちの打球範囲の狭さに悩まされる事無く、片手バックとのいい所取りが出来る。
この場合はウエスタンからイースタンバックグリップに120度回し握りを変える。
尚筆者のグリップは基本はウエスタンだが、打法に合わせ瞬時に変えており、両手でジャグリングする様にラケットを強く握っていない。
ノーグリップ。卓球、バトミントンでは相手の返球が早いので使えない。
又卓球で相手のトップスピンに対し、ラケットを緩く握ってナックル性のボールを台上にそっと置くストップ性ショートがあるが(最近のシェークの卓球では打たれてしまい時代遅れかもしれない)、これはダブルス等でリターンダッシュ(セーバー)と組み合わせて、サービスダッシュして来る相手の足元に緩い理想的リターンボールを打てる。
尚このストップ性ショート打法はドロップショットにも使える。
更に余裕のある時は卓球と同様にドライブ性とカット性ショート様の打球も混ぜて変化をつける。
そして日頃意識してこれらをやっていると、攻められた様な咄嗟の場合も、自然にアットランダムに変化球が出せる様になる。
これら変化球はグランドストロークの時より相手をボレーさせる場合がより変化が効果的の様だ。
そして浮いて来たボールを軟庭七三ボレー応用のドライブボレー強打で仕留める。
これは前の方で相手との近距離で硬軟織り交ぜ変化をつけスマシュに繫げる前陣速攻の卓球をやる感覚そのものである。
コーチのマイケルチャンは錦織に練習として卓球をやらせていた。
又これは上記に関係するが、バトミントンで相手のスマシュをネットすれすれに返す技術は、攻撃された時うっちゃり返球の訓練になる。
又前述ピッチャーが適当に荒れているのがいいと書いたが、筆者はサーブでコントロールがいい方ではなくスピンも掛かったり掛からなかったりで安定性はいまいちだが、サーブで重要なのは相手に攻撃されない事であり、考え方に由っては待ちを外すと言う意味でその方がいいのかもしれない。
考えてみたらピッチングもサーブも他の動作と違い上から肩を回すオーバースローであり、プレーの開始動作と言う共通点がある。

更に「良いパフォーマンスーいいプレー、ビューティフル、一種の芸術性」を原則にすると、自分のショットのみならず相手のいいプレーも率直に評価出来るようになる。
よくトッププロテニスプレーヤーの試合で相手の素晴らしいプレーに対して拍手を送るのを見かけるのはその様な理由からだと想像する。
これは一流のレッスンプロが言っている事だが、上手くなる人の第一の特徴は他人の良いプレーを評価しマネする事であり、たとえ対戦相手であっても素晴らしプレーを見たい、自分もやりたい姿勢が必要である。
それに引き換え相手のミスに手を叩いて喜ぶ哀れな人の行為は・・・何も言うまい。
彼らは我々どうでもいい試合をやる人間と異なって重要な試合に勝つ、おまけに利害も絡むと言う事情があるにも関わらず、勝敗性―競争性等には関わらない様にしてひたすら「良いパフォーマンス・・」のみを考えている。
この様な観念はプレーの邪魔になると認識していて、日頃から身体的練習と共にメンタルトレーニングも行っている。
すなわち平常心を失い心理的動揺をきたせば「ショットの必要確率」が保てなくなるからである。
これは直接対戦相手の無い競技がお互いの競争性を煽り更に高みを目指せるプラスサムゲームなのに対し、直接対戦相手のある競技に競争性を煽るのはお互いの心理的葛藤に繋がるゼロサムゲームだからだ。
但し彼らも我々と同じ人間なので試合中「ネチネチ精神」が頭をもたげる事は良く見られる事であり、その時人間は必ず精神的には消極的になり、身体的には腕をしっかり振らず手が縮んだ状態になる。
テニスでは前出サーブで腕が縮みダブルフォールトをやり、野球ではいわゆるピッチャーの投球で「球を置きに行く」と表現され、投球の伸びを欠き痛打される原因となる。

h.テニスに於けるやり方の検討
・それぞれの試合、勝敗の特徴
「ネチネチ試合、勝敗」― 多数のポイントを合計し勝敗を決めるのと又今の公式試合の実力判定基準となっている為、必然的に両者の決定的な優劣の決着に繋がる。
勝敗を考え易い為試合中常に心理的な重さを持つ、プレーが消極的になる。
「爽やか試合、勝敗」― 1ポイントのみの勝敗で決着し次に又新たな試合を始め「ポイントの機械的集計」が無い為、両者の決定的な優劣の決着は曖昧。
勝敗を気にせず1ポイントにかける姿勢から心理的重さは無くむしろ爽快感、プレーが大胆になる+集中力。

・「ネチネチ試合」と「爽やか試合」の関係
これについては人々の間でそれぞれ単独で相反する物との誤解がある様だが(or の関係)、テニス、卓球等「ネチネチ試合」を勝敗の基準として採用する多くの競技では、あくまで「ネチネチ試合」が基準で「爽やか試合」はそれに付属する存在である。(and の関係)
柔道に於いても最近一発勝負の弊害が目立って来ており、指導者層は危機感を抱いていて、トーナメント制を採用し始めたそうである。
相撲は昔から15戦の総計で最終勝敗を決めている事はあまりにも有名である。
これは最終的実力差を判定するには一発では無く総合力を見るのが妥当だからである。
又点差が付きにくい野球、サッカー等ロースコア試合にも言える事だが、PK戦での決着は観戦者は何か物足りなさを感じるのは分かると思う。
即ち実力差が正確に反映されていない。
で競技中の一つ一つの技術も「ネチネチ試合」に勝つ事を基準としている。
例えば「プレー、ショットごとの必要確率」と言う考え方は、1プレーだけでは成り立たない。
又一発だけ勝てば良いと言う事なら、リスクを度外視したデタラメ強打がいいと言う事になって、プレー、ショットの有り方も変わって来てしまう。
一方ロースコア試合では緻密な守りの基に、リスキーな一発プレー、ショットが攻めは有効である。
野球においては近年科学的測定器の開発が進み、ピッチャーの投球のスピード、回転等の分析により、より有効な投球が可能となった=ピッチャー優位となった=守備力が増した=よりロースコア時代になった事に由り、昔の様な単打、バント等のネチネチしたやり方よりも出会いがしら一発=ホームランの方が勝てる確率が上がったのである。
この様に最終勝敗は1つ1つのプレー、ショットにも影響を与える。
それでは日頃の試合に於いて何故「爽やか試合」が重要かと言うと、既に述べた通り試合のやり方その物も有効だが、特に「爽やか精神」が「ネチネチ試合」に於いて重要である。
これは又繰り返しになるが相撲に於いて力士のインタビューを聞いていると、ほとんど全員が一戦一戦を大切にすると答えていて(あれは自分に言い聞かせているのだ)、優勝を目指すとは余り言わない。
すなわちこの一戦一戦=「爽やか試合」、最終結果=15戦=「ネチネチ試合」と言う事なのだ。
その為には日頃から「爽やか試合」をやって「心性の習慣性」で「爽やか精神」を習慣化し、公式試合等の「ネチネチ試合」に臨むと言う事が重要なのである。
一方目的が咄嗟の運動としてやる場合、楽しんでやる場合は、他人の不幸を喜びたい人は別だが、何も好き好んで不幸な人を生み出す「ネチネチ試合」をやる必要は無いだろう。
かくして日頃の試合では勝敗を付けるのを目的にする場合も、運動及び楽しみが目的の場合も、いずれもベストは「爽やか試合」落ち着くと言う事が分かるだろう。

・カウントする行為等の心理的意味
 a.カウントを数える行為=「ネチネチ試合」―自分が優越感に浸ると同時に、敢えて相手に知らしめて屈辱感を味わわせる事である。
  勿論これは人に因って大きな差があるが、一般的に優越感と屈辱感の深さは比例する様だ。(例の哀れな人の勝った時の喜び様には正直気味が悪かった)
 b.暗算する行為=「爽やか試合」―優劣を自分だけ知り相手に公表せず密かに優越感に浸る事であり、又結果を分析する行為に繋がる。
 c.数えない行為=「爽やか試合」―純粋に過程のプレーのみに集中する事である。
このa.とb.の関係はプラスサムゲーム?の学校の実力テストで、敢えて成績を貼り出してバカな競争心を煽るのと、結果だけを本人に伝えて実情を確認するのと似ている所もある。
所詮世の中は犬や猫にもある競争心だけで解決出来る事は少なく、重要なのは現実の客観的な分析と自分がどうかと言う事である。

・テニスに於けるプレーヤーから見た試合形式
最近インアウト判定等する機械が既に制作されていてプロの試合で使われ様としているが、カウント等もAI等を利用して自動化される様になるだろう。
そしてテニスロボット等よりもかなり早く、我々の周りでも自動判定機械は一般的になるだろう。

➀.「ネチネチ試合」で第三者=審判が判定しカウントする。(公式試合)
自分の心掛け次第でスポーツの本来の姿である「爽やか精神」でプレーは③に比べてやり易いが、人間はロボットでは無いので現行のカウントされるのは「ネチネチ精神」に引き戻され易い。
「爽やか精神」でプレー集中する為に現状でも少しでも改善出来る事は、審判はアウト、ホールト、サーブ、コートチェンジ、ゲーム、セットの終了のみをコールし、カウントはコールはせずに望む人には望む人のみに見える位置に文字表示等すればいいと考える。

②.「ネチネチ試合」でプレーヤーが必ず自己判定及びカウントする=現行の「ネチネチ試合」
本来ならば判定するカウントを数えると言う行為は審判が行う行為だが、②の日頃の及び初級者公式試合の「ネチネチ試合」ではそれは期待出来ず、プレーする人がやらなければならない。
まず問題として前述の様に自分に有利な判定をしたくなる。
試合中に1人の人が判定すると言う行為とプレーに集中すると言う行為を同時に行う事は、心理的にはお互いに矛盾し合い両立は難しい事が原因だろう。(「集中力の分散」)
又➀の正式試合ではインアウトの判定は他人が行うが、ぎりぎりの場合自分では分からない事があり、最後まで打ち切らなければならないのに、②では見てしまって判断を誤ってしまう事がある。
ぎりぎりホールトの難球の好リータンに対し、サーバーがその後のサーブをびびったり文句を言ったりする人を見かけるが、これは前述に反し全くおかしい。
自己カウントは集中力を削がれ「ネチネチ勝敗」の世界に引き戻される。

③.「ネチネチ試合」でプレーヤーは分かる限り自己判定するがカウントはしない。
現在②の必ず自己判定及びカウントする行為でさえ集中力を削がれ不満で、これを実行する人がいるが、周りに文句を言う人もいる。

④.「爽やか試合」で他人が判定する
これは正に「爽やか精神」の究極で真にプレーに集中出来るが、現在は誰もやる人はいない。
「勝敗は結果である」=「爽やか精神」を実現する為の公式試合のあり方としては、現在の試合中ある程度結果が分かる6ゲーム先取1セット式試合よりは、知りたくない人にとってはタイブレーク式で何方かが先に一定のポイント数に達した場合1セット終了する方式が良いと思う(参考卓球,バトミントン)。
このタイブレーク式にした場合、両者のポイント数が近い値で終了する場合、必ずしも両者の実力が正確に反映されているとは言えないと考えられるので、従来の考え方の2ポイント差に拘る必要は無く、もっとポイント差を大きく取って終了してもいいと考えられる。
そして自動判定機械の普及は勝敗の帰趨が分からない内に終了する事が手軽に出来る様になり、試合後望む人には試合経過等のデータ、「ネチネチ勝敗」の最終結果を検索が出来る文字通り「勝敗は結果である」の理想が実現するだろう。(後で結果が分かるのは入試と一緒。もっとも入試の様に採点に時間が掛かる訳では無い)

⑤.「爽やか試合」でプレーヤーは必ず判定する
これは「爽やか精神」にも反し余り行う意味は無い

⑥.「爽やか試合」でプレーヤーは分かる限り判定する
現在「爽やか精神」を実現する為には現実的な選択である。

i.何故スポーツ―テニスをやるか
ここまでは目的を主に競争、試合、成長等の角度から見て来たが、ここからは面白さ楽しさ、健康の為等と言う観点を加えて、競争性、闘争性、「爽やか勝敗」性、「ネチネチ勝敗」性、ゲーム性、面白さ楽しさ=娯楽性の関係の心理について考察する。
これは何故我々が問題性の少ない排他性の無いスポーツではなく、わざわざテニス等排他性あるスポーツをやろうとするかと言う根本問題に繋がり重要なテーマである。
我々レベル日頃の「ネチネチ試合」でプレー中の人々を観察していると、面白さ楽しさを感じているのがはっきり分かるのは、公式試合で勝った時等を除いて終わった後の「ポイントの機械的集計」である「ネチネチ勝敗」に酔っている時ではなく、長嶋様のわざとらしい派手な失敗も含めた1プレーごとに一喜一憂している時である。
これは相手との対決性or闘争性or競争性or勝敗性or楽しさor娯楽性を感じるのが、自分と相手との将にプレーしている最中に生じているからだと考えられる。
この1プレーへの反応は明らかに「爽やか精神」の領域であると思うが、さりとて皆が「爽やか精神」だけでプレーしているとも言えず、最終勝敗「ネチネチ精神」でやるとも言える。
多分「ネチネチ精神」と「爽やか精神」をどちらにどの位の比率かは個人、状況に 由って異なると思われる。
人に由る違いが何かは筆者にはまだはっきり掴んでないが(もっと人間心理を研究しなければ分からんと思う)、只優越感をのみ求める人、哀れな人、筆者、公式試合に臨む場合の理想と現実の立ち位置ははっきりしていて、読者は自分の立ち位置を確認する事を是非お勧めする。
自分が何をやりたいかが重要で、習慣に従って只漫然と試合をしていないか、楽しさの源泉は何なのかをしっかり確認する事だと思う。
・簡単なそれぞれの特徴の大雑把な目安
「ネチネチ精神」の特徴 :人と比較する事が好きの相対主義、プレー中よりも終了時勝った時が楽しい(人の不幸を見るのが楽しい、笑い)
「爽やか精神」の特徴 :自分がどうかの絶対主義、個々のプレーが楽しい(自分の会心のショットで相手を抜き去った、サービスエースを打てた、相手の前進に対しパスが通った、トップスピンロブが打てた、ドロップショットが成功した、セーバーが出来た、リターンエースが打てた、作戦通りチャンスボールを相手から引き出せた等々)
ここで試合に対する個人の精神の「ネチネチ度」「爽やか度」の概念を表示する。 

優越感  哀れな人      現実       読者             筆者            理想   
大←ネチネチ精神                                           →小 
↓      ↓       ↓       ↓   ↓         ↓             ↓

小←                                           爽やか精神→大

又公式試合では現実は大へ移動、理想は小となる訳は、やはり試合の重要度で、弊害の人々はシチュエーションの認識がおかしいと言う事だろう。
例として教育でも入試、模擬試験、ショートテスト、授業その重要度及び意味が違うが、それと同様状況次第で立ち位置が変わると言う事である。
まあ「ネチネチ試合」ばかりのべつ幕なしにやるのは、学校の状況が授業もやらず毎日実力テストばかりやってると同じと言う事だろう。
それと爽やかさ、楽しさ、健康の為等を求めるなら、今の様に日頃の試合の「おばさんテニス」「老人テニス」等の付き合いテニスで、「ネチネチ試合」の実力判定ばかりやり他人に屈辱感を味わわせたいか、そして人間関係のトラブルを起こさせたいか、又本気になっているのは実態が見えない下位者だけで、上位者は勝負では無いので仕方なく白けて「忖度テニス」をやっていると言う事を良く考えておく必要がある。
(何も考えず唯ぼーっとやってるんじゃねーよ)

終わりに
以上長々と書いて来たが「ネチネチ試合」と「爽やか試合」方式の相違は、良く考えれば何ら新方式を提案した訳では無く只カウントしないだけで、実体は考え方の相違にしか過ぎません。
しかし人間の活動全てでそうですがその考え方が大きな差異を生みます。
考え方の相違を追求してネチネチと検討してみると、読者も読んで分かる通りかなり異なった新しい見方、面白さ等発見出来たと思いますが、たかがテニスのカウントを取らないと言う些細な問題でさえ筆者は色々有り過ぎてまとめ切れていないと感じており、もし新たな発見、見解等があれば書きたいと思っています。
すなわちネチネチと考え書き(途中時にはバカな事も書いている)、サラッと爽やかにプレーする訳です。
「爽やか試合」でも「ネチネチ勝敗」は必ず存在しますが、公式試合等以外の日頃の内輪の事に「ネチネチ試合」の様にそれを事荒立てて黒白を付け無いだけです。
前述弊害の様な見たくもない(美意識)人間性を顕在化させる原因となる「ネチネチ勝敗」の場面を作り出す事は、健全性が売りのスポーツの世界では出来るだけ避けた方が利口です。(普通の人は醜いものは見たくない 美しいものが見たい)
一般にも善くテニスサークルの募集で楽しさを強調する表現を見かけますが、その楽しく無い実態は一つには「ネチネチ試合」に由る勝ち負けに対する拘りに由来すると考えられます。
そして日頃のテニス更に排他性ある競技スポーツをやる人に由る動機の違いは、今流行りの「人々の分断」を生じさせてもやむを得ないと思っています。
どうでもいい試合即ち公式試合等以外でどうしても他人と比較し自己確認したい人は老若男女を問わず必ず一定数いるからです(それがゲームの本質じゃねーか→楽しんでやる人に言いたい事→その辺で楽しんでるゲームと「ネチネチ試合」とは一点大きな違いがある。スポーツも学業もそうだが「ネチネチ試合」の優劣はその人の素質に由来する部分が非常に大きいく、我々は今まで何十年も生きて来てさんざん素質差の屈辱を味わって来ている。何でここで今更公式試合等以外の日常テニスの場でそんな事を感じなきゃいけないのか。)。
この場合「爽やか試合」をやりたい人は「「ネチネチ試合」をやらないのは負けるのが怖いからだ」と言われたら、率直に「その通り。どうしても決着を着けたいのなら公式試合に出ては」と答えればいいと思います。
これは相手と比較する以上競争相手にも同じ土俵に立ってもらわなければ困るからの発言であって、それはその人のの都合であってそんな挑発に乗る必要等無いのです。
又他人と比較して勝敗が決まると言う事が表に表す表さないの違いはあるにせよ、他人の不幸(ミスショット、ボールのアウト、ホールト等)を望むのに繋がるのは人間の自然な心性です。
そもそも私がこの方式を掘り下げる切っ掛けは、大した試合でもないのに(そう言う人に限って公式試合で決着を付けない)勝敗に極端に拘る人々にほとほと嫌気がさしたのが直接の動機ですが、その前から練習と称し件の哀れな人とシングルスをこのやり方で自由に伸び伸びとプレーした事に因り、実際技術が前よりもかなり上達し考え方が進歩した点です。
そして筆者はもっと若い内からこの様な考え方を明確に自覚しやり方を実践していれば、もっと進歩出来たのにと悔やんでいます。
又自由性、闊達性、開放性は本来の「爽やか勝敗」追求からは少し外れる部分もありますが、我々日頃のどうでもいいテニスで何も常にギアを上げている必要は無く、又他の様々な目的、本質もありと思います。
人間の精神活動はプレー中でも日常と同じく続いている訳で、人は場面によって多重性多面性を示す存在で、誰しもが自己の中にあるマイナス面や一寸倒錯的?なこれらの精神活動―目的、本質をも全てを否定する事は出来ないと思います。
例えば筆者は「屈折したサド」の様な心理状態に追い込まれるのは幸いな事にまだ無いですが、これは多分哀れな人の負けが込んでいる様な単純な(失礼)精神状態では無く、個人的恨みとかもっと複雑な人間そのものに又社会に恨みを抱いてるとか、対象に感情的絡みがある場合だと思われます。
だから「屈折した」と表現した訳で、最近は理由の分からない事件等当惑する事が多いと思いますが、その裏にはこの様な心理が潜んでいると思われます。
一方哀れな人の様な意識は前者に比べ余りにも単純ですが他人事では無く、我々の誰しもが多い少ない(①競争意識)、出す出さない(②美意識)の差はあれ潜在意識の中に存在すると言う事を肝に銘じたいと思います。
そして彼の行動はこの無意識①、②に③試合の意味(重要度、シチュエーション等)の価値判断(これは意識上の問題)が加わったすなわち①、②、③の重なった場合であると言う事です。(どうだこの理論構成)
そして複雑な心性の人は余り自分を表に出さない、他人の評価は良い人として通っていて(単純な人には分からない)、事が起こってあの人がとなるのです。
そして改めて強調しますが「競争性」と「闘争性」別であると言う事です。
最近新聞等で若い人にもっと「競争性」をと言う主張を見かけますが、筆者はこれには異議を申し立てたいと思います。
競争とは他者との比較であり、これが強いのは「ネチネチ度」表の大の方向で、これは限定された範囲での勝敗と言う事です。
一方「闘争性」は勿論競争の意味も含みますが、もっと上の概念で自分に挑戦するも含み、範囲の限界が無い勝敗と言うよりも戦いの意味だと思います。
老人の我々はともかく、有望な若い人には限界の無い=上限が無い「闘争性」に期待したいと思います。
本文はスポーツについてにも関わらず心理、人間一般論を基礎として考えていますが、これは自然現象以外の社会活動は全て人間にかかわる事であり、その基礎には必ず人間心理が存在すると言う筆者の考えから出ています。
そして前述の弊害の人々の心理等を分析する事は、今回このテーマ等の深化に役立ったと思っていて、その意味で彼らには感謝しています。
これは余談ですがあらゆる人間に関する社会の活動―宗教、文化、経済、政治、戦争更に歴史、文明様な壮大なテーマも、人間個々の心理、心性更には心的素質等の分析の様な微細構造から考えて行く必要があるとも考えています。(着眼大局着手小局)
そして一体不可分の関係では無いにせよこの様に人間心理等の上にスポーツがあり又政治があるすなわち人間が全てに関わっている以上、「政治とスポーツは切り離して考えろ」との中国共産党のオリンピックでの主張は全くの御都合主義と言わなければなりません。
尚「爽やか試合」は実力を確認する試合及び「公式試合」=どうしても勝敗を付ける目的に於ける「ネチネチ試合」を否定した訳ではなく、あくまでも日常行われている試合=どうでもいい試合についての提案であると言う事を再度強調しておきます。
最後に本稿については更に発展させて行きたいので、独善に陥らない為にも異論反論歓迎、特に面白い意見、理論は大歓迎、どんな些細な事でもいいので皆さんの御意見御批判を是非頂きたいと思います。 
そして深く考えられた批判で筆者の幼稚な論理を論破して頂く事を是非期待しています。


  <余談>人間模様観察記
競争性にはお互いの個人的な心理的葛藤も関係あるのでは? → 多分テニスのプレーをやっただけでは解決しない → 感情のネチネチした縺れは健全性が売り物のスポーツのジャンルには相応しくないのでは? → 他のジャンルでは健全性から外れれば喧嘩等の場外乱闘も視野に入れてみては?

強打の男性で人に誘われ「おばさんテニス」に参入したが、性格は悪く無いのに嫌われ、勧誘人男性共々退去を余儀なくされた → ボールのスピードが違い、やはりこれは競争性が成立していない事例と思われる → 「爽やか試合」をやるorハンディを付けるor 運動出来るなら何でもいいなら心もおばさんになり切ってプレーする。(おかまになるのも又楽しい)

これには後日談がありある筋によると、実際は彼の強力サーブをおばさんが上手く返球するので、彼は自尊心が傷つかない様に「おばさんテニス」から退去した様なのである。
これも「ネチネチ試合」の弊害?で、勝ち負けに影響を与えるので嫌がったと言う事なのであろう?(これは「ネチネチ試合」も「爽やか試合」も差は無く、ただ単におばさんに返球された事が自尊心を傷つけただけとも考えられるが)
おばさん恐るべし
筋にはこちら「爽やか試合」は勝敗は明確でないので、多分自尊心は守られるので是非来てみたらと伝える様に頼んだ。(笑い)
こちらは全ての人にwellcomeである。

オムニの市民コートはいいがクレーコートはイレギュラーがあるので嫌だと言う人たちが多数いる。
「ネチネチ試合」で偶然が結果に影響を与えるのを嫌がるのは、最終勝敗を重く意識するからだと思う。
「爽やか試合」では勝敗は1ポイントでたとえ一つイレギュラーでミスしても直ぐに次のポイントが目標となるので、偶然も又楽し=裏ドラに当たったようなものと捉えられ全然気にならない。
それに筆者にとってはイレギュラーもいい他律応答的運動になる。
そしてイレギュラーのせいにすれば、自分の下手さの慰めにもなる。(笑い)

練習は嫌いで「ネチネチ試合」を毎日6時間以上もやり、試合中掛け声をかける相手(その人は上手い)を嫌っている人がいる → 常に勝敗を意識する「ネチネチ試合」ばかり四六時中やっているので「ネチネチ精神」が常態化し、対戦相手は自分を脅かす存在と映り、それが原因で彼の無意識の中に相手に対し嫌悪感情が湧いていると想像する「心性の習慣性」 → ゲーム依存症の様になっているのでは? 笑い → どうせなら勝敗を意識せずお互いに自分を高められ楽しいwin-winの人間関係が築けそして良く出ている公式試合に勝つ為のいい練習ともなる「爽やか試合」のほうがいいと思うのだが? → 尚彼のお母さんおっと間違えた奥さんも同様に感じている様だが、これは彼女が知ってか知らずか彼のよいしょに乗り易い性格に合わせた発言と思われ、いや夫婦唱和は夫婦円満の秘訣です。はい

これには後日談があり、一緒にやってたおばさんたちも彼の試合中の声掛けは嫌いだった様で、彼女たちも「ネチネチ精神」に由る弊害=無意識の中に相手に対し嫌悪感情=ゲーム依存症が湧いた様である。
恐らくこれを読んでる第3者は声掛けが何故嫌いに繋がるのか理解出来ないと思う。

前出の強打がテニスと思っている様で、相手を打ちぬく事が快感で、たまにしか入らないデタラメ打ちをやる若い人が「ネチネチ試合」でボールがアウトすると、例の哀れな人は明らかにアウトと分かるのに「アウト」と叫び手を叩いて喜ぶ → 若い人はうっぷんが晴らせ、哀れな人は喜び、そこには妙な win-win の関係が成立していた

例の哀れな人は現役時代こちら老人テニスグループと別のおばさんグループと掛け持ちしており、おばさんグループでの評判を聞くと不思議な事にこちらで見せた様な弊害行為を余り目立たせなかった様である。
そこでこの現象を想像して見ると、彼はおばさんを怒らせた時の恐ろしさを知っており、つまりさすがの彼もおばさんたちには頭が上がらなかったと言う事の様なのである。(笑い)

市民コートの数十人のオープンなクラブで相手構わず手当たり次第試合に参加しようとし、他のクラブメンバーから一目置かれている年配者がいる → 他のメンバーの意見を聞くと、やはり「性格は良いが続かないから面白くない」と言う答え → だから彼はかなりの有名人である → 壁打ちは良くやる様だが、相手がある場合は生きたボールに対応しなければならない → コーチには壁打ちのそれも2回バウンドさせて打つのを勧められたそうだ → 車椅子テニス? → コーチも商売だから → 二言目にはコーチの言葉を持ち出し、おとなしく何も言わない人を相手に練習方法等自分独自のやり方でやっていて、更に練習相手を欲しがっている様だったので、ある普通と思われる若い人を提案したら「あの人は難しい」と御託宣された → 「そちらはどうなの?」の言葉が喉元まで出掛かったが思いとどまった → そんな現状に鑑み運動 すること自体が第一目的の筆者と利害が一致する部分もあるので、練習を呼び掛けたら断られた → その後何故か拒否反応が強くなり、「もう来ない」宣言された → そこで件の普通の人によいしょを唆し、彼が頻繁に練習相手を務めた所、御託宣人は食事を奢ると宣言するまで心を許した → まだジュースだけの様だが → そして別の関心事に忙しく暫くテニスを離れた → これで終わりと思っていたら再度御登場し他のサークルに呼ばれた → 会った際上から目線で「テニスをやるには人間関係も重要だ」と御託宣された → その後何故か件のサークルから疎遠になった → そこでスクールで新人をオルグして来て、2人で又別のサークルに参入しようとして断られた → 彼は憤慨している模様 → 新人も段々分かって来る様である → 件のクラブではとうとう実力ランク分けに踏み切った様である → これはあくまで筆者の想像ではあるが、他人に言われるのが大嫌いで、独自の基準をもって他人を評価している模様である。(まるで筆者の様だ。笑い。但しこちらは批判大歓迎、誰でも歓迎、他律応答的運動が出来るなら人を選ばない。念の為) → 最近はラケットを持って我々のプレーしている近くをウロウロしている → さてどうしましょう?筆者にも分からない → 答えを求む → 彼は最近突然死した → 食事の奢りは反故に出来た、更に自分の現実を見ずしてトンズラ出来た。上手く逃げやがったな 

当作文は周りの他の人々の反応(殆どが「ネチネチ試合」の実践者)には面白いとの評価の人と、受け入れ難い人と別れる様で、中には「爽やか試合」をやるのは勝負を否定してると受け取る人々もいて、筆者が公式試合に出ると言ったら言ってる事と矛盾してると受け取った様である。
まあ錯誤受け取り組に対しては、受験をしないのに受験勉強するバカがどこにいるかと言いたい。(前述参考 「ネチネチ試合」と「爽やか試合」の関係)
さらに前者と後者の人の心理を分析すると、前者が物事を客観的に捉えられ自分を笑う事が出来る傾向があるのに対し、後者は主観的視点が中心で、日頃のテニスに於ける「ネチネチ試合」を否定したくないと言う観点からのみ見る為=先入観がある為錯誤受け取りしたり、又自分の客観的評価が出来ない人も多い様である。
日本人の三分の一が文章を読んで理解出来ないと言われているので、後者の様な人がいるのはやむを得ない事だろうと思う。
好評価の感想としては「筆者の言っている事は正しい。だけど付いて行くのは大変」とか「本としてまとめたらどうか。但し「ネチネチ試合」と言う語句が頻繁に出て来るがもう一寸どうにかならないか」と言ったものがある。
「ネチネチ試合」の頻繁使用については軽蔑の臭いを感じ取った様で、筆者は正直にそれを必ずしも否定はしないとは答えておいた。 
→ 教訓ーウクライナ侵略が始まってからロシアのロシア国民への報道について、人間は理性的に薄々嘘情報と分かっても(ここは多分確証が無い状態に注意、強力な自覚を伴う理解は何を聞かされても動かない)、繰り返して聞かされると、次第に信じる方向になって行くと言うコメントが載ってた。
そんな現象が有るのか筆者は信じられなかったが、このコメントは多数の人々が自覚の無い現状を考えると非常に印象に残った。
他にもっと良い表現があるかも知れないが、筆者はこの現象を一応「頻繁使用に由る意識の変容効果」と名付ける事にする。
ところで普通は発信者が意図して言いたい事を頻繁使用した場合にこの現象が起きると考えられるが、本ケースの場合は実に不思議な場合で、軽蔑について筆者も明確に意識していた訳でもないのに(本人も気付かない内に無意識の軽蔑意識が表面化したのかもしれない→ほんとかー?)、必要だから使った頻繁使用の表現から両者が同じ事に気付いた(正確には読者が先に気付いて、その指摘に由って筆者が気付かされた)訳で、これひょとしたらお互いの頭同士音叉の様に同期を取ったー即ちレゾナンスしたのかも知れないのである(笑い)
これは後で気付いたが「ネチネチ~」「哀れな人」と言う表現自体、考えてみたら筆者の軽蔑無意識から発っせられたかもしれない事である。(差別用語だー)
まあ読者にそう感じさせた事は謝るが、それにしてもこの表現「ネチネチ~」と「爽やか~」の対比の妙等の的確さは、筆者にとっては捨て難いのである。
又頻繁に使用されてる「おばさんテニス」と言う語句も差別用語かもしれず、この語句に対しておばさんの反応は2通りに分かれるだろう。→ 想像してみてくれ
70過ぎののMおばさんは「ウッシィシィ」と意味深に笑って「下手をしたらおばあさんテニスと言われ兼ねない、まだまし」と言った。あはは

難しいと思うが「ネチネチテニス」派と「爽やかテニス」派がプレーをやりたい場合どうするか?
この場面ではそれこそ前述「ネチネチテニス」派がサーブ、コートチェンジ等も全て黙ってカウントし、「爽やかテニス」派に最終カウントを除いて伝えれば全てが解決すると思う。
この場合相手の負け最終カウントを無理に伝える行為は、将に前述相手に屈辱感を与えるのが目的と解釈出来る。
又この場合「ネチネチテニス」派の負けの現実がある場合で負けたくない時は、カウントを多少誤魔化すのもありかと思う(笑い)

 
              「爽やか試合総括」                                             
・目的
スポーツの原点である「勝敗は結果である」に立ち戻り、本来の姿である「良いパフォーマンス」等を実現する為、結果の目標を「ネチネチ勝敗」から「爽やか勝敗」に変更し、自由に伸び伸びと大胆にプレーする事に由り、目的1として上達、目的2として健全性、爽快さ、楽しさを同時に追求する。

・趣旨
公式試合ではない日頃のテニスのやり方は大体 ①.単調な練習及び②.「ネチネチ試合」の2種類と思われ、年齢が行き目的が上達から楽しむに移るにつれ、①練習が少なくなり②試合が増えて行くのが一般的だと思われる。(年配者が練習をしなくなるのは人間無意識のうちに先が短いのを感じているからだと思われる。)
しかし日頃「ネチネチ試合」ばかり何も考えず漫然とやっていると、集中力の低下、自由性、闊達性を失い消極的になる事に因るプレーの質の低下及び成長性の阻害と、目的が「ネチネチ勝敗」に拘る余り勝敗しか見えない人が現れる等問題が生じている。
又日頃の「おばさんテニス」「老人テニス」等の「ネチネチ試合」は、健康、爽やかさ、楽しさが主目的にも拘らず必要以上に無理に相手に心理的に重い「ネチネチ勝敗」の屈辱を与える事がある。
そこでやり方は従来の練習、「ネチネチ試合」2種類のみしかないと言う固定観念を捨て、①と②の中間で上達、爽やかさ、楽しさの何れも追及出来きそれらを繫ぐ形態であり、真に真剣勝負ともなる「爽やか試合」と、様々なニーズにも対応したその応用オプションを提案する。

・長所
1.1ポイントを取る為に必要な一つ一つのプレーに集中すると言う本来プレーヤーが勝負で一番必要なマインドでプレー出来る。
2.「爽やか試合」には心理的に重い「ネチネチ勝敗」がない為、人間関係の悪化を未然に防止出来き、お互いに向上する考えが生まれる。
3.日頃の「ネチネチ試合」のプレー中、常に勝たなければならないと言うプレッシャーから解放され、伸び伸びプレーし―自由性、闊達性、開放性―爽やか、楽しさを味わえる
4.大胆なプレーをする事に因り、新しい技術の取入れと完成を目指す事がやり易くなり、「ショットごとの必要確率」と言う考え方が理解出来る様になる。上達
5.1試合が1ポイントで終わりその都度試合が無い時間が有るので、弱点レビューがやり易く技能向上には最適
6.大胆なプレーに由り自分の弱点が明確になり練習する事のモチベーションが上がる
7.無理をする事が問題な老年者等が体等の負担が大きい場合、楽にプレー出来又何時でも止められる
8.人数が多い場合等プレー時間が試合内容に影響受けず平等化出来る
9.実力アップ、体力差、技術力差のある人同士にハンディ等のオプションがやり易い
10.公式試合を目指す場合、ギアを上げた1ポイントを取る試合を連続し習慣化する事に因り、日頃のメンタルトレーニングになる
11.自己に有利な判定の問題が少なくなる
12.日頃の「ネチネチ試合」の自己判定に因る「集中力の分散」の問題が無い
13.最終勝敗を意識しないのでイレギュラー、風の影響等偶然も又楽しと言う気持ちでプレー出来る

・短所→対策
1.実力が分からない → 黙って暗算をやる。他人にカウントしてもらう。「ネチネチ試合」時々をやる、公式試合にでる。そもそも日頃のプレーを見れば直ぐ分かる。将来自動カウント機械が出来れば、知りたい人は後で知る事が出来る。
2.どうしても「既存概念の勝敗」の決着を付けたい「ネチネチ精神」の強い人がモチベーションを持ちにくい → 性格を変える
3.公式試合を目指すにはこれだけでは不十分である → 「ネチネチ試合」を適度にやる。
4.実践感覚が養われない → 公式試合に出る。これ以外実践感覚を養う良い方法は無いと思われる。
5.面白くない=ゲーム性が感じられない → 固定観念を捨て頭を柔軟にして兎も角トライしてみる。「爽やか勝敗」の相撲、柔道、剣道を考えてみる。ゲームについては本文参照
6.テニス初心者がテニスのプレーを理解せず、無茶苦茶にやる可能性がある=一か八かのデタラメショット等 → テニス自体を知る為に特に初めの内「ネチネチ試合」の洗礼を受ける。公式試合に出させ恥をかかせる。教育。乱打をやらせる。
7.公式試合を想定した流れと駆け引きの訓練が出来ない → 上級者は別にして、1セットのみの初中級者では流れの有無及び作戦、駆け引き以前に終了してしまう短期決戦である。
それとその辺の試合を見ているとミスで失うポイントの方が遥かに多く、作戦、駆け引き以前の問題である。
又異質なプレーの対戦相手にはオプションの準試合等をやって、試合前に準備して置く事の方が重要である。 → 自分の引き出しにない物は引き出せない

・方法
プレーのまず最初に「爽やか試合」、オプションの準試合、テーラーメイドテニス等のいずれをやるか方針を決める話し合いを持つ。
又「爽やか試合」の場合ギアをあげて連続してやるのか=公式試合に勝つ為、落として遊び、練習としてやるのか=楽しんでやる為、目的をはっきりさせておく。
これはギアチェンジ等、プレーの途中でも勿論必要に応じて変更する。
これは非常に重要で目的をハッキリさせないと相互の認識の違いが心理的葛藤を生み、トラブルの原因になるからである。
シングルス等でお互い暗黙了解がある場合=気心が知れた場合は、途中の適当なギアチェンジはリズムが作れ、話し合いをやりながら実力向上の為には非常に有効である。
特に上達を目指す人は問題点等試合の合間にプレーをレビューして技術的検討をす るのが望ましい。
検討はその場でその時間にやるのが最も効果的で、やる理由はイチローではないが身体的能力が同じなら考えるプレーヤーの方が圧倒的に向上するはずだからだ。
1ポイントをエンドレスに取り合い、終了時は敢えて決める必要は無いが①人数が多い場合等の為に任意に決めた一定時間、又は②つらくなってもそれを言い出しにくい人を考慮しプレーヤーの申告とする。
時間で終わるやり方になじめない人は、サッカー、ラグビー、ボクシング等広くスポーツで採用されている事を考えてみる。
コートチェンジ等も任意に決める。 → サーブ交替後で「ネチネチ試合」と同じでいいと思われる。
サービスは交互にやるタイブレーク式でも、無理に決めずに自由でも良いと思う → 8連続ポイントサーブを交互にやるのも方法。
サーブ、レシーブを強化したい場合、人を立たせてサーブをしないとその気分が出ないと言う人には、満足するまで連続すると非常に効果的である。
反対にこの場合サーバーがレシーバーに忖度して入れなければと考えてしまう人もいる様なので、以下のやり方もある。
ホールトやアウトボールもインアウトのコールをはっきりさせ本気でリターン返球し、返球後は対戦を通常通り続ける。
これはレシーブ側はより難しいボールの処理なので良い練習機会になる。
但し無理にコールの為に確認する作業は前述「集中力の低下」に繋がり本末転倒なので、分かる場合ははっきりコールし、はっきり分からない場合は「多分ホールト」等とコールしても良い。

・基本、応用の用語の説明―「爽やか試合」、準試合(部分戦=テーマを決めた対戦)、テーラーメイドテニス、忖度テニス
*「爽やか試合」
続けてやる場合=ギアをあげる場合それが多数ある試合の束と考える事も出来き、総括すると「ネチネチ試合」が全体最適化であるのに対し、「爽やか試合」は部分最適化と言えよう。
*準試合(部分戦=テーマを決めた対戦)
色々の戦型の相手に対処する為又は新たな技術取得の為に、普段やらない形をお互いの合意の基にネチネチと検討し試してみて、新たな可能性を発見するものである。
これは公式試合対策の為にも、そのプレーの特徴を自分でやってみて感覚を掴む意義がある。
例えばロビングのみでプレーするとか、セーバーをやるとか、雁行陣の方が勝率が高いのに敢えて前に出てボレー合戦をするとか。
本式等オプションは通常の「ネチネチ試合」でもやれ無い事は無いが、パートナー、対戦相手等の気持ちを考えるとやりづらい。
嘗て「ネチネチ試合」でこちらにとって嫌なショットを打つ相手をいい練習機会と捉えて対戦を望んで負かした所、練習相手にさせられたと怒らせてしまった経験があるからである。
しかしお互いの合意の基にやれば出来ない事は無い。

*テーラーメイドテニス テーラーメイド教育に倣って命名したものであり、片方が相手のプレーに対し条件を付けて望む様にやる事を頼む事。
これには2つの場合が考えられる。
➀.積極的テーラーメイドテニス 自分の弱点を克服する為に、相手方に対し敢えて弱点を突いてもらう様に申し込む事。
<例>1.バックの深いボール、高く弾むボールが弱点なので特にそこに打ってもらう
     2.相手のチャンスボールをこちらの体、足元目がけて打ってもらう
3.深いロビングを打ってもらってスマシュ等を試みる
4.滑るスライスに弱いので敢えて打ってもらう
5.ドロップショットを打ってもらう
6.左利きが嫌なら敢えて対戦する。→ バックハンドで打つ事
②.消去的テーラーメイドテニス 自分の弱点を突かれるのが嫌な場合、そのプレーを出来るだけしない様に申し込む事―要するにハンディを付ける事である。
「ネチネチ試合」で人によっては体、足元の強打を嫌だとはっきり言う人がいるが、この様な発言は勝敗を無理にでも決めなければならない「ネチネチ試合」とは根本的に矛盾する。
理由は体、足元の強打はダブルス等では決定打だからで、これが嫌なら「爽やか試合」でこの様な別のやり方を考えねばならない。
<例1>.体力差が有る場合等で特にシングルスでは配慮してもらう。
シングルス例―これら段階は双方の体力差、実力差に応じて選択する
段階1.両者体力が無い場合センターセオリーで強打、球種関係無く打つ。
段階2.体力差がある場合体力のある人は無い人に向かってセンターセオリーで強打、球種は制限無く打てるのに対し、無い方は場所、強打、球種等の制限無く打てる、狙える。
段階3.体力差がある場合体力ある人は攻撃モード、ニュートラルモードでは段階1.と同じだが、守備モードのみ場所も制限無く打てる、狙える。これで不利な体勢からのパッシングショット等の練習になる。
<例2>.前述積極的例1.~5.と逆

*忖度テニス 様々な事情でその時点での力の差がありハンディを付けて貰いたいのにそれが言い出せない場合、相手方がおもんばかって行う調節的プレー行為。

これは多分日頃の「ネチネチ試合」のシーンで一般的に行われていて、やっている人は何か違和感を感じていると思うが、この状態は余り良くなく出来れば②.消極的テーラーメイドテニスが望ましい
                               以上


筆者の立場  (これも「爽やか試合」の参考になれば)
スポーツ歴
 剣道5年、卓球5年、バトミントン2年、軟庭2年、テニス40年以上
日常やっているスポーツ
 毎日独自柔軟体操1時間以内、週5日テニス2時間程度、週残り2日インターバルジョギング1時間以上で、毎日午前中雨天でも必ず計2時間以上
 成人病予防の健康の為と、午後の時間を有効に使う為にもやらないと気分が悪くなるので午前の運動は欠かせない。
 自己完結的運動では冬に同じ時間で体の温まり方が不足し、他律応答的運動が出来るなら誰でもウエルカムである。(例えばスマシュ等強打を体に向かって受けるのは最適な他律応答的運動である。マゾではないと思う)
テニスは運動が第一目的なので、複雑な人間関係等余分な緊張を強いられる「ネチネチ試合」よりも「爽やか試合」、練習等で十分で、又十分な運動をやりたい点からもシングルス志向である。(老年期人生最後の悪あがき)
左手が運動不足になる為時には左手でラケットを握る事も。

テニスの重要度順の目的
第1.特に他律応答的運動(テニスでなくてはならない理由は無いが、卓球、バトミントンは目が悪くなって出来ない)
第2.勝ちに繋がる広義の良いパフォーマンス=いいプレー、ビューティフル、一種の芸術性、アート
第3.自由性、闊達性、開放性
第4.その他他者との交流等
  これからは更に加齢と共に第2.の目的の比重は下がって行く

試合に対する考え方
元々主義として全てのジャンルに於いて限界のある他者との競争、勝敗の相対主義を目標にしておらず自分がどうかと言う絶対主義を標榜しており、スポーツのジャンルでは「爽やか勝敗」、「良いパフォーマンス・・・」等の面白さに目覚め、技術の完成を目標にしたい筆者にとって、日常プレーでの「ネチネチ勝敗」に興味は無い。→ 面倒くさいに人間関係から開放されるロボットとの対戦の方が向いているのかもしれない。但しこれは他人との交流、会話等その他は犠牲になる。→ 人間関係は他のジャンルで → 成長に繋がるのならジャンルに由っては競争大歓迎。特に論争は大好きである。闘争心は本来旺盛。但し不毛な競争、論争は不要。 
「ネチネチ試合」で格上の相手等と戦って負けても不満足は無いが(相手は不満足だろう)、格下に勝った時は品格の低い試合をやったなと言う感覚と(これも一種の美意識か?)、自分のプレーに反省、不満だらけで満足感等にとても浸れない。(勝って優越感のみ求める等と言う気持ちにはとてもなれない。はっきり言ってこんなんで喜ぶのは余程頭が単純なのである)
同程度の人とやる時は試合中常に余計な緊張感を持っていなければならずしんどいし、負けた時は人並みには屈辱感はある。
そして筆者とて弱い人間なので勝敗が気になって、一番重要な運動する事、いいプレーをする事がおろそかになる。
又筆者は昔から特にそうであったがスロースターターで、かなりの時間を練習と試合に費やさないと調子が出ないタイプで、練習もそこそこに「ネチネチ試合」ばかりやるのは合わない。(体が硬くだから毎日柔軟体操をやる)
特に「ネチネチ試合」で最初からとばすと気分が悪くなり、最近は日に由ってのんびり「老人テニス」をやりたい日もある。
かくしてそれなりの覚悟を決めてやる勝敗を無理に決める「公式試合」等を除いて、日頃はリラックスして闘争性を発揮し、課題追求も自由に出来向上が望める「爽やか試合」で十分で、強制が要求される「ネチネチ試合」は合わない。 → 自分の日頃の結果である勝敗は「公式試合」で確認 → 出る理由ー筆者のテニスの第2の目的         

哀れな人が脳障害で倒れてからリハビリを経て2年程経つが、先日嘗てコート近くで撮った筆者の家の猫の写真入りのはがきが送られて来た。
これは我々老人はそうだが世間から忘れ去られるのではないかと言う共通心理が根底にある。
彼に対しては余りにも人間が単純で幼稚なので恨みは無く、初めのうち「爽やか試合」を2人で相手になってもらった事又技術が向上した事は感謝しているが、恨みがあるのは後半人が増え「ネチネチ試合」のダブルスになった時打たれるのを恐れて(チャンスだったら当然打つべきボールだが)、こちらにボールを回さなくなって筆者が運動不足になった事である。
こんなブログを書いているにも関わらず、彼は筆者がどう考えているかと言う事に付いては全く気が付いていない様である(退職後はネットも持っていない様だし)。
今まで毎年年賀状をやり取りしていて、筆者は来る者は拒まないと言う主義なのでこれからも多分ずーとやり取りは続けるだろう。


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