テニスブログ No.2

美しいテニスの勧め  

先頭ブログ:爽やかテニス (sawayakatenisu.blogspot.com)   


初めに
これは「爽やかテニス」その他に関し友人達に送ったメールを集めたものです。
先にスポーツーテニスのブログを書きましたが、結果的にはこれがそれ以降の考えをまとめたものとなりましたのでそのまま出す事にしました。
後で読んでみてたかがスポーツに関しよくもまあこんなネチネチと書いたもんだと自分ながら感心してます。(笑い)
長くて取り止めが無いと感じられる方は、一番最後のメールを見ていただければ考えを端的に示しております。
現在のテニス凝り性の状態は学校時代からスポーツなんてバカがやるものとの認識だった私からは随分かけ離れておりますが、毎日体を動かす特にとっさの運動が必要不可欠なった状況では、何とか人を集めようとする動機が一連のこれらを書かせたと言えます。
運動で無い頭のとっさの反応鍛錬については、現在は人間を必要としないAIの対話型コンピュウターが相手となる手段は確立されつつありますが、事スポーツに関しては人間に代わるロボットが相手となる時代はまだ到来しておりません。
私のスポーツ目的は書いてある通りですが、目的を満たしめんどくさい人間関係を必要とせず必要な時に必用な条件を満たすロボットの開発が是非望まれます。


Re: 美しいテニスの勧め                   2023年3月

コロナも癒えて季節的にも良い季節を迎えておりますが如何お過ごしでしょうか。
日頃のどうでもいい試合の改革を目指して、訳の分からん「爽やかテニス思想」(チュチェ思想みたいだー笑い)を唱えてTコートのテニスを始めて2年近く経過、又テニス更にスポーツについて深く考える切っ掛けとなった「哀れな人」Kさんが倒れてから3年が経ちました。
この間私は公式試合を除いて「ねちねち試合」を一切やって無く、ピュアな精神=「爽やか精神」でテニスをやれる環境になり、「ねちねち精神」の毒が段々抜けて来ました。
今は公式試合等を除いてもう二度と「ネチネチ 試合」には戻りたくない気分になっております。
そしてこの2年でテニスを通して分からなかった様々な疑問点問題点がクリアになり、又新たに学ぶ事がありました。
①.勝敗に拘るのがほとほと嫌になった、不幸で哀れな人を作らない、上達する為には別の方法がある等日常のテニスの改革で始めた「爽やかテニス」について、理論を発展させ真の勝負とは何かと言う事が明確になった。
②.人間理論ー競争意識等ーについて新たな考察が出来た
③.テニスの技術ではサーブの進歩が出来た
そこでこれらの成果を参考にして皆様が我々の日頃やっているTコートのテニスに参加していただければと本作文いたします。
その中でテニスに限らず最近特に重要だと思う事は物の見方=視点で、視点によって見える風景は全く違って来るという事です。
私の好きな言葉は「着眼大局、着手小局」ですが、中でも重要な事は大局即ち全体を俯瞰して見る事及び視点を変えて見る事で、問題は単一の視点からしか見えなくなる事です。
そこで本作文では随所にそれを指摘したいと思います。

私この歳にして今更といえば今更ですが、これからの自分の態度宣言を以下にしたいと思います。
今までの文章では人間のセンサーの部分の違いがその人を決める大きな要素になると強調しております。
例えば対人的な好き嫌い等はセンサー部分=その人の頭の中の現象であり、そういう事実があるという事を想像する事は出来ますが、実態は理解が出来ません。
勿論個人同士では共鳴共感という私的コミュニケーション手段はありますが、人間である以上主観的視点=偏見の視点から完全に逃れられませんが、私は目標として全ての人々(バカで客観性が備わっていないデタラメトランプの様な人は除く。人を見て法を説けやで)の共通言語である客観的視点ー論理的コミュニケーションを目指したいと思います。
私客観的視点による論理整合性があれば、直ちに相手の言う事を認めるのをモットーとしておりますので、皆様上記の原則の批判は大歓迎ですので是非いただければ幸いです。
運動の第一目標はとっさの運動ですが、とっさの鋭い批判は同様に頭の活性化になります。
そして全ての有効な批判を取り込んで、更に成長を目指します。ハイ (笑い)
又同様に議論においては他者の上記原則から外れた主観的視点は遠慮なく指摘したいと思います。
そして沸騰して主観的になり=感情的等になり、客観的視点から外れればそれ以上続けるのは余り意味が無いので、直ちに議論を止めるのを方針としたいと思います。
理由は議論は客観的視点でのみ成立する事であり、主観的視点の言い合いはお互いのしこりとなるだけだからです。
尚議論以外においては従来通り主観的面白ろい話は大歓迎です(笑い)

こちらの最近の現状はオルグがあまり熱心でない、私が絶えず不在、ウィークデーの午前中、何よりも思想?が理解されないという事で、いまだに人集めに苦労しています。
そこで最近は形振り構わない営業活動に転換し、性格的に可能性の有りそうな人物を選んで勧誘する事により、少しずつ参加される方も出て来ています。
それでも人が足りず一人でやることも多く、おかげで最近はサーブの練習の面白さに重要性に気付き凝っております。
これは第一目的のとっさの運動にはならないが、第二の目的の良いショットを打つという事にはなります。
色々のやり方を自分なりに工夫してやってみる、特に最近は YouTube の動画がいい参考になり、かなりの進歩が得られています。
その中で気付いたのは、やはりサーブは単独で取り出して集中的に練習しなければ駄目だと言う事です。
テニス特に男子プロは50%がサーブであると言われていますが、おかげでサーブは何んとか自信が持てるようになって来ました。

ここで何故私の第一目標がとっさの運動にあるかという事ですが、以前Iテニスクラブに所属しており、会費を払っているので夏場過酷な環境の下で無理にやり、すっかりテニスそのものが嫌になり、運動するなら別の方法があるのではないかと考え、テニスそのものを止めてしまいました。
その後2年はジョギングと体操等をやりましたが、何か物足り無さを感じ、嫌いもほとぼりが冷めてきた事もあり、Tコートで又始めました。
その後柔道Mさんから運動はとっさの運動をしなければ頭の訓練にはならないという理論を聞き、我が意を得たりとばかりM理論の信奉者となった訳です。
だからとっさの運動ができれば試合でなくとも相手の練習の補助でもOKで、今は人間の需要と供給の関係で「接待テニス」ですので(笑い)、初めての方、練習をやりたい方、そして勿論真の試合(後述)をやりたい方も大歓迎です。

この様な状況で2名の方SさんYさんが私のブログを読み、その趣旨に賛同したと思われ、こちらも期待し参加された初めてのケースとなりました。
しかしYさんには理解が得られず、拒否反応が強くなって練習にさえ参加していただけないのは誠に残念です。
この様になってしまうのは、こちらの文章及び態度に何か問題が有るのでは、と考えさせられてしまいます。
Sさんは私の文章を読み現在も参加されているのですが、YさんはSさんに促されて来られただろうという経緯は有ります。
こんなに楽しく気分よく出来、問題点の少ない「爽やかテニス」を何故理解していただけないのか、その理由の解明が必要です。そこで「爽やかテニス」と人との相性を解明するには、今回は非常にいい機会であると考えその分析を試みます。

私は世の中の事実、真実を究明する為には、人間そのものを分析解明する事が非常に重要であると日頃考えています。
例えば今回のウクライナ侵攻では、ナチプーチンの心理、人間性、考え方等頭の中が発生の直接原因になった事は明らかです。
余談ですが私はそれが妄想度の高い近視眼的歴史観と、時代遅れの18世紀的国家間だと考えております。(視点の問題)
ソ連崩壊で西側は勝ったと浮かれましたが、ナチプーチンも含めロシア人民の頭の中をもう少し注意深く見ていれば、今回の事態は防げたのではないかという見方があります。
この戦争は終わりが見えませんが、もしナチプーチンをやっちまえば、状況は恐らく大きく変わるのは分かると思います。
又もしナチプーチンが核使用をしたら、当然我々は影響無しでは済まされません。
近いところでは習近平の頭の中も、我々にとって重大関心事です。
この様に人の頭の中の分析は、政治も含め社会のあらゆる現象に影響を与える重大事なのです。
そして人間の分析という事であれば、何も特別な指導者、超一流アスリートのみならず、我々の周りの人間でも同じ人間なのだから、いくらでも参考になります。
人の頭の中の分析を中には人の粗探しと受け取り目を背ける人もいる様ですが(この様な態度は「情報に対する自閉症化」か?)、私は事実、真実の解明には絶対必要であると考えています。

ではこれから本題に入ります。
今回私は人間は持っている本来のもの=性(さが)は、言葉の説得=理論的説得=客観的視点では変えることは出来ないという事を改めて感じています。→ 人間は客観的視点を余り持てず主観にのみ終始する人がいる
というのはKさん及びまだ一部しか見えてませんが、今のところYさんにある共通部分がある様に見えるからです。
そこで解明の為にKさんという現象をもう一度振り返ってみます。
まず性格も含め考え方等様々な面で硬直性が目に付きます。
試合中にも拘わらず「ネチネチ勝敗」しか見えなくなる(一つの視点)、八つ当たりが抑えられない、負けた時あんな失態を演じてまで悔しさを表す、又「爽やか試合」を提案すると激しく拒み、負ける事が多いにも関わらずあくまでも「ねちねち試合」に拘る。
又三つ子の魂100までと言いますが、Kさんが倒れて以降私は何回も電話してますが、今の惨めな状態になっても言葉の端々からまだ彼は負けん気が強い、あらゆることに対し他人に負けまいとする気持ちが感じられる、すなわちその人の基本姿勢、性向が競争である様に見えます。
我々のやっているのはどうせ遊びのテニスなのだから、もっと楽しくやったらと言いたくなります。
以上から「ネチネチ勝敗」にこだわる理由、更に「爽やかテニス」を拒否する理由は、結果としての勝敗に対し原因の競争、それも基本姿勢、性向がメリハリの無いのべつ幕無しの競争意識=その人の性格にある事が原因ではないかと考えました。
そしてこの競争意識は人の主観から出た感情であり、客観的なものでは無いがゆえに、客観的視点を曇らせる原因になるという事です。
実際彼の言動は自分の主観中心で、客観的視点の欠落を疑わせる点が多々見られました。

ここからは競争の論理について考えたいと思いますが、これは一般社会において戦争等も人間の心理の根底に競争があると思われ、非常に重要なテーマです。
我々は資本主義の社会に生きており、この社会の基本原理は競争だと言われています。
がしかし世の中の活動全てを考えれば分ると思いますが、人間は何も他者と常に競争している訳ではなく、通常は協調と競争が交互の関係です。
特に新分野においては主体は競争では無く創造であり、例え競争であっても主観的競争意識ではなく冷徹な分析的競争であるべきです。
ここにおいて必要な人材のマインドは、今日の共同作業の時代ではゼロサムゲーム的=競争ではなく、ブラスサムゲーム的=協調もっと言えばオープンマインドでなければなりません。
だからN 社のような先端企業がKさんの様な人たちーーー止めます。
スポーツも社会の一端である以上競争と協調の交互の関係です。

競争意識については自閉症の人や稀に余り競争意識を感じさせない人もいますが、殆どの人は強弱はあれ皆が持っています。
がしかし普通人はジャンルとか(自分が価値を感じないものは競争する必要がない、それに重要度もある、ここではテニスのみが対象)、範囲とか(自分の周りだけ見るのか、広げて社会全体を見るのか、テニスの場合だったらおばさんグループ等だけを見るのか、もっと広げて強くなりたいのか、又ケースとしては余り無いのですが、そこへ時間軸を加えたもの、例えば小説家が過去の有名な小説家に対して自分の作品を競争心を感じながら作る)、状況とか(場面によって変わってくるだろう、公式試合と遊び等は違う、相手にもよるだろうーフェデラーに競争意識を感じる普通の人はいない)、内容とか(意味のある勝ち方をしたいー相手のミスで勝っても嬉しくはないーましてや相手がサーブで手が縮んでダブルフォルトを犯すなんて後味が悪い、美しくない、勝ちゃー何でもいいなら関係ねえーけど)を考える、何でもかんでも競争しようとは思わない、即ちその「競争の意味」を考えるものです。→ 入試試験は違いますよ。受かるか受からないかで厳然たる線が引かれる→ 念の為
しかしこれは私の見方ですが、一般的に硬直的でのべつ幕無しの競争意識の強過ぎる人は、勝敗という単純な価値観しか見えなくなり、他の価値観、「競争の意味」等考えられ無くなる様です。
又一般的に他の価値観が分から無い為か、興味の幅も 狭く話題も少なく、人間的面白さは余り感じられない傾向がある様です。
一般的にやはり話題が無い人の人間関係はテニスに限らず長続きがしないと言えると思います。
硬直的で競争意識のみ強い➞客観的視点が薄くなる、他の価値観が見えない➞視野が狭くなる➞人間の幅がなくなって面白みにかける➞話題もなくなる図式的には以上の関係だと思われます。(俺も結構きついことを言ってるなー)

又世の中にはこちらから見れば無意味な事、どうでもいい事に、やたらマウンティングしたがる人がいるのに気が付くと思います。(うらみ長期型)
これはやはり競争意識が強い人で、何らかの領域で負けの屈折した劣等感を抱えており、それの埋め合わせとして別の領域で発散していると考えられます。
劣等感を克服して果実を得るという美談はよく聞きますが、これはその領域でその対象への話であり(恨み長期型)、またいじめは対象は異なっているが領域(人間)は同じであり理解出来るのに対し、上記は受けた劣等感の領域と、発散する領域が異なっていて、その領域と領域の因果関係がはっきりしないので、屈折したと表現したのです。
だからこれは八つ当たりの一種の変形型と解釈されても、やむを得ないと思います。
Kさんの名誉の為?に言えば、彼は直線的八つ当たりはありますが、そういう複雑なところはありません。
Kさんは屈折しておらずもっと直線的で、だから鬱屈していないが単純なのです。

ここで人の事を笑っている様ですが、私自身そういう部分が無いと否定する自信はありません。
人間は多面性があり、自分でも気が付かない部分もあり、他人から見たら同じ事を言われるかもしれないのです。
又先に殆ど誰しもが競争意識のない人はいないと書きましたが、ということはKさん的なものは我々の心の一部に存在するという事なのです。
ブログに彼の余りにも率直に表す心のメカニズムを書きましたが、我々はKさんの様にああいう風に率直に自分の心を出す勇気は無い、そしてKさんにああいう大胆な表現をされると言う事は、我々自分自身を鏡に映された様な気がするという事だと思います。
これはブログでさわやか度とネチネチ度の直線分布を書きましたが、競争意識のある無い、強い弱いも量的差でしかなく(多分前者と後者の直線的分布は同じことを言っている)、一方が他方を笑うという関係ではないと思います。
以上からまあ言ってみればKさんという存在は、我々の持っている競争意識というものを象徴的に表現してくれた存在だと思われます。
K1ちゃん Tコートに私のではなく、競争意識の象徴として、Kさんの像を設けたらどうですか。(笑い)

Yさんについては付き合いはまだ浅く、詳しく彼の人間性は正直分からないのですが、今の時点では多分前述の競争意識が強い人間像に近いと想像しています。→ 競争意識が強いというより住んでる世界が狭く多分主観的
少なくとも オープンマインドでは無く、自由闊達性はあまり感じられない様に見えます。
尤もこれは彼の反発意識がそう見える様にしているのかもしれません。
但しいくらなんでもKさんの様に単純発散では無く、すなわち鬱屈した感じはあります。
Fさんは印象として生協の職員タイプだと評しましたが、私は近い感じはあるが生協の職員はもう少し社会性があり、例えば野菜の流通に生き甲斐を感じるとかそういった感じがあるのに対し、彼はもう一寸自己中心的主観的なのではないか?と答えておきました。
又最初会ったときから私に対して拒否反応を示しているような気がしていたのですが、一般的に競争意識の強い人は、反発心も強いものです。
これ私の先行ブログを読んでないKさんと異なり、最初からブログの内容の知識がある為に、それに対する拒否反応が出たのではと考えています。
又「私が人の言う事を聞かない」と自分の事を棚に上げて言った事も記録事項です。
自分のことを棚にあげるという事が何故揶揄されるかというと、客観的視点からは自分と他者の評価に違いがあってはならないからです。
この件に関してはまあ私自分を振り返ってみて、そう言う聞かない処は人一倍あるかもしれず、否定する気はありません。
又人の話では人の好き嫌いは激しいそうで、私はその中に入ると言う事でしょうか?
尤も私サイドはKさん(哀れだとは思いますが)、Mさん(彼に関し私が面白おかしく「M劇場」を書いた頃から多分嫌われてると思いますが、これにはMさんの得意なハグをしてあげれば機嫌が直るのかも、笑い)に対するのと同じで、嫌いでは無いのですが。
そもそも私は人の好き嫌いは余り無く(馬鹿じゃないか)他人にいい顔をしたがり、又博愛主義を標榜しているのですが。
これは多分その人の人間性を多視点で捉える努力を重ねて詳細に見て見ると、余り憎む気も起きなくなると言う事だろうと思います。
嫌いな人を作らない為にも、皆さんも実行する事をお勧めします。(笑い)

それでは肝心の何故拒否反応を示すかですが、以下の様に行く通りかの表現をしてみます。
「爽やか試合」ではネチネチ勝敗の勝ち負けいずれの場合もはっきり無くなり、他人との優劣が明確でなくなるので、あてが外れてしまうからだと考えられます。
他の価値観が見えず、勝敗それも「ネチネチ 勝敗」に頭が凝り固まっているのに、はしごを外される気分だと思われます。
自分のモチベーションが失われてしまい、言ってみれば自分の競争性と言うアイデンティティ?が否定される様に感じるという事でしょうか。
それとこれは少し別の見方になりますが、彼はただ単に頭の整理が出来なくて、後述の勝負の本質を理解していなかったと考える事もで出来るかと思います。(視点の問題)
これは融通がきかず固定観念に囚われる彼からは容易に想像が出来ると思います。
尤も私も彼の活動中に今の様に「爽やかテニス」について真の勝負とは何かと言う考え方が確立していて説明が出来たならば、彼を説得出来哀れな姿を晒さないで済んだのではと反省しています。

ここで少し苦情を言えば、私の観測ではテニスに限らず対戦相手をのある競技をやる人は、一般的に他人との優劣の比較に興味を持つ人=競争度が高い人間が多い傾向がある様です。(失礼)
交流目的、人間理論だけを得たいなら、何もこの様な単一的なテニスやる人の集団よりも、他に目を向けた方が余程面白い人たち、多様性のある人たち、価値観の複雑性を持っている人たちが多いのです。
私が徒歩、自転車の旅行して色々な人と接するのもそれにあります。
彼らはオープンマインド、自由闊達の精神の人たちが多く面白い。

私が爽やかテニスに拘る理由ーここからは主観的それでは何故私が「爽やかテニス」にそんなにこだわるかという事ですが、これはブログである程度分かると思いますが今回のテーマです。
一般的に勝敗に敏感である無いは多分その人の持って生まれた個人差がかなりあり、MさんやFさんのようにあまり勝ち負けを意識しない人=どうでもいい人と(失礼、笑い)、市民テニス場でやって来た中等で名前は言いませんが言動等から推測して、敏感である人たち(私もそうかもしれない)がかなり多く見られます。
又友人にいますが非常に敏感な人でKさんに無い注意深さを持つ人は、そもそもテニスの様な直接競争相手の有る競技には参加しません→彼は器械体操。
そして普通の人はKさんの様に負けの悔しさ、競争心による弊害をああいう形で直接的に表しません。(この心理の解明についてはブログ参照→美意識の問題だ)
但し間接的には「ネチネチ 精神」に毒された様々なマイナスイオンの表出は、あちらこちらで広く観察出来ます。
以下例を挙げて苦情を述べ立てます。
勝てる相手しかやらず相手が成長して強くなると途端に止めてしまう人がいる→これは相当重症→単なるマウンティングを取りたいのか→強きを挫き弱気を・・・の反対→所謂いじめの心理じゃねーか。
後で相手のプレイに対し恨みつらみの様な事を言う→鬱屈してる。
まさか途中で投げ出すわけにもいかないのか、ただ黙々と勝利のためのプレイをやり続け、こちらが楽しくやろうと会話を始めると文句を言う→Kさんの「N社血の結束」→笑い、楽しくやらなきゃ→長島や新庄が受けるのが分かるだろう。
Kさんではないが、サーブで腕が縮んでダブルホールドをする人がいる→「ネチネチ勝敗」を見てるからだ。
ボールのイレギュラーが気になる→とっさのいい運動になるだろう、
入ったか入らないかの様な些細な事にネチネチとこだわる→そんなこと大した問題じゃねーだろう
ホールトのボールを強打すると、脅威と 受け取られるせいか文句を言われる→試合では判定が明らかになるまでは最後まで打たなければならない。
相手のとっさのネットイン等のうっちゃりギリギリショットを怒るーテニスは相手のコートに入れるのがルールだ、これも技術だ
おばさんテニス等で強打を打つ人は嫌われる→人のショットにいちいち注文するのは重い「ネチネチ勝敗」が掛かってるからだ
左利きは 打ちづらいので嫌われる→これらはいい成長の機会と捉えろ➝それには「爽やか試合」は最適
ヤタローや取り巻きおばさんたちの様に、ネチネチ試合をやり過ぎゲーム依存症になって、強い相手に脅威を覚えて相手の人間まで嫌いになってしまう
しかしこういう人たちはKさんと異なり黙っている分、逆に心理の裏側は気になるし又私には恨みの深さが怖いのです
大別するとネチネチ勝敗→感情長期型、 さわやか勝敗→感情短期型。
ともかく暗い、鬱屈している、美しくない。
私は明朗会計が好きなのです。

私の事を言えば誰だって負けるのを嬉しい人はおらず、人並みには悔しさはあります。
さりとて勝った時もそれほど嬉しくもなく、ただほっとするだけで、勝った時よりも素晴らしい一打が打てた時の快感の方がずっと大きいのです。
だとしたら誰も幸福な人はおらず、負けた時屈辱を感じる人の分だけ全体にとっては不幸な事と考えます。
尤もこれが大きな大会で勝ったということであれば話は別だとは思いますが。
そして私はもう仕事でもないのに、日頃の遊びのテニスにおいて、無理してまでそういう勝った負けたというドロドロした世界に関わりたくはないのです。
他人と比較してマウンティングを取ったり、他人に屈辱感を与えて快感を感じたりしたい気はありません。
私の運動の第一目的は咄嗟の運動にあり、第二目的はいいショットを打つ事にあるのです。
だとしたらネチネチ勝敗にこだわらなければならない何もそんな辛い「ねちねち試合」なんか止めて、爽やかな勝敗の「爽やか試合」をやった方が良いと考えます。
ゼロサムゲームよりもプラスサムゲームで、お互いのウィンウィンウィンの関係が築ければ、それに越したことはないのです。
世の中には直接対戦相手のない競技が数多くあり、直接対戦相手のある競技を嫌う人たち=マイナスイオンを嫌う人たちが多くいますが、そういう人たちの心性に私は近いと思います。
Kさんの様に相手が向上するのは自分を脅かす存在になると考えるケチな精神ではなく、M君が子供に教えるのは上達が早くて面白いと言ってましたが、Rテニスではいつでも門戸を開いていますので、初心者でも出来る範囲で助言が出来たらと思います。
ということでこのところ初心者のF君に教えています。
尤もFさんがよく言ってますが、私が教えると妄想思想を吹き込まれて、相手を迷わす事になるかもしれませんが。(笑い)→気を付けろ
今のいい相棒の柔道Mさんは、相手に振り回されることを快感に感じ、いい運動だとも言ってます。
彼の主目的はトレーニングにあり、雨の日でも2時間位運動する私と目標が一致する部分が非常に多いです→とはいえ彼は闘争心は私同様強いのですが。
そしてナダルやジョコビッチの様に、振り回されて絶対に取れないと思うようなボールを切り返し、鋭いパッシングショットが打てるのが理想です。
なにせプロのテニスプレーヤーが、もう一度生まれ変わったら打ちたいショットの1位は、ナダルのパスティングバナナショットと言われている程ですから。
人間は美しいものが見たい、美しい事がやりたいのです。

プロたちの素晴らしいプレーを、あれは金儲けのために職業としてやっているんだから我々には関係がないと言う人がいます。
確かにその通りなのですが、WBC等でも分る通り人々を楽しませ熱狂させる意義は多くの人が認めると思います。
増してや我々テニスをやっている人特に上手くなりたい人ならば、テニスプロたちのプレーに興味を持つというのが自然の心の動きだと思います。
ところが 1日6時間も飽きもせずテニスをやっているのにプロテニスに全く興味を示さず、私に何故そのようなものに興味を持つのかと聞いてきた人がいます。
私は再三人間はセンサーの部分で大きく違ってくるという事を強調しておりますが、この異質性には驚かされました。
恐らく頭の中の動きが我々とは相当異なっていると予想されます。

そして「爽やか試合」ではいい一打を打ち一ポイント取るということが目標になる為、プロの相手のいいショットに対して手を叩く行為を自然に理解出来ると思います。
ここをもう少し分析すると、やはりいいショット というのは相手があって、自分が良い ショットを打てるという事で、少し極端な言い方をすれば、2人で完成するという事=共同事業=協調なのです。
例えばナダルのパッシングショットを思い出していただければ分かると思いますが、観客などの観察者にとっては最高のプレーですが、拍手する相手方のプロもそこにはやはり客観的な観察者の目を持っているのです。
多分上手くなるという事は、この様な視点が大事であるという事なんだろうと思います。(多様な視点)
これは一流のコーチが言っている事ですが、上手くなる人の第一の特徴は、このような素晴らしいプレーに憧れ、そしてそれを真似る人だそうです。
尤も我々は既に可能性が失われた老人テニスですが。

今焦点が当たっていますが、私はゼレンスキーという人物に非常に興味があります。
彼は元はキーウ大学卒の俳優でしたが、かつてはロシアにまで人気のある喜劇俳優も演じた程でした。
先日テレビを見ていたら彼の過去が放送されていて、大統領になる前は将に彼が大統領の映画だかの主役を演じており、それが爆発的な人気になり有名になって、大統領選に担ぎ出されたそうです。
大統領になってからは皆さんご存知の通り、凄い大統領を演じきっています。
人間というもの=才能のある人は恐らく演じようとすれば、それを本気になって演じるようになり、やがてそれが本人になりうるという事だと思います。
でテニスの場合も上手くなる人は恐らく本気になって手本とする人の真似が出来る人だと思います。
ここで質問ー考える→今回の WBC 野球で大谷が他のメンバーにリスペクトしたり憧れたりしてはいけないと言いました→矛盾しているとは思いませんか?

又「さわやかテニス」を勧めるもう一つの理由として、これは本来から少し逸脱しますが、私はわがままなので試合中も脱線して自由に物を言いたいのです。
この点はFさんTKちゃんと趣味は一致すると思います→3人集まればいつも漫才になってしまうので。
そして自由な発言は、新しい事、面白い事を思い付く事が出来ます。
遊びテニスはただ勝ち負け、勝負ではなく、他人との面白い会話、付き合いも重要です。
それに最適なのはいつでも中断できる、1ポイントごとの「爽やか試合」です。
甞てKさん等真面目すぎる「N社血の結束」の人たちに、試合中に脱線するのを怒られた事が思い出されますが、この辺にも人の考え方の違いが分かると思います。
錦織等プロの試合など見ていればわかると思いますが、彼等はユーモアや冗談を交え時には滑稽なプレイを行って緊張をほぐそうとしています。
人間は自由闊達さがなければ、いいパフォーマンスは出来ない、いいアイデアは出ないのです。

ダブルスはやはり人間関係が複雑で人々の思惑は多様で、シングルスの方が気持ちよく楽に出来と思います。
ダブルスの問題点は、4人もいるのでそれぞれの思惑が異なり、 すべての人を満足させるのは非常に難しい事です。
それに唯ぼーと立っていて運動不足になるのも不満です。
私はKさんでさえ二人だけだった時代は、練習と称してよいしょして忖度爽やかシングルをやって、全く問題のない良好な関係でした。
今火曜日は柔道のMさんと爽やかシングルスをやっていると書きましたが、鬱屈しておらず1ポイントで勝負は終わるので後腐れが無くともかく面白い。
そしてMさんのサーブに対するリターンを除いて忖度テニスは一切行っておらず、本気でサービスエース狙い、又お互い相手を振り回し打ち抜くこと(Mさんは左と右を持ち替えてフォアハンドの強打者)をやってます。
これはMさんに呼びかけますが、「是非左利き長身の利点を生かして目の覚めるような鋭いサーブを打てるようになってください。今のようなおばさんサーブでは、こちらが アドレナリンが出なくて、不完全燃焼を起こしています。左に切れていく鋭いサーブを物の見事にバックハンドリターンで打ち返したいと考えていますので。そうなれば我々は勝敗等には囚われない真の対決が実現できると思います。」
このようにさわやかシングル+私がサーブの場合は、アドレナリンの出る勝負、本当の試合です。
これはブログで直接対戦相手のあるスポーツの起源は「形を変えた攻撃性、サド?―人類は闘いの歴史であり、それに因る双方の被害が出るのを避ける為にルール(一球でも多く相手のコートに返す)を決めて他人への攻撃心を昇華させようとしたと言う説がある」と書いています。
以上で言えることは直接対戦相手のあるスポーツの本質は競争と協調の調和であり、そのスポーツ精神とは「爽やか精神」であるという事です。
相撲の力士がインタビューで必ず言うことは、自分に言い聞かせる意味も含めて一戦一戦戦うという言葉です。
そして相撲のこの一戦がテニスでは1ポイントに、15戦が「ネチネチ勝敗」に当たります。
上手くなる為、「ネチネチ試合」に勝つ為には「爽やか精神」がいかに重要かが分ると思います。
但しやはり実力をどうしても正確に測らなければならない柔道の正式試合では、最近はトーナメント式を導入する考え方も有る様です。
但し強調したい事は日頃の真剣試合ではテニスの様にのべつ幕無しにカウントは取らない事です。
結局「爽やかテニス」が分らない人というのは、直接対戦相手のあるスポーツの原点、本質と、「勝敗は結果である」と言う金科玉条を理解出来無い人とみなせると思います。
そしてこれは想像ですが、恐らく遊びダブルスにはこの真の対決という意識が何処か欠ける部分があって(パートナーのせいにする等→Kさんもそうだった→何処かに甘えがある)、だから面白さが分らないんだと思います。
勿論土地が狭い等の日本固有の問題はありますが、海外ではシングルスしかやらない理由もその辺ではと想像されます。
尤も土地の問題ならイタリアーナポリでは観光中心の一等地のクラブでさえシングルスでした。
ダブルスはシングルスに比べて格が低いと見做されてるのも分ると思います。
又「爽やかテニス」がネチネチ決着が無いからどうせ遊びだと考える人にとっては、「爽やかテニス」は面白く無いと思います(視点の問題)
これもやはり考え方の問題であり、どんな相手のある競技でもお互いの視点が合って無かったら成立しないと言う事です。
さあ皆さん?もネチネチ、鬱屈した(ではないか)Kさん的競争意識と固定観念を捨てて、爽やかな対決、爽やかな汗を流しましょう。
人間は美しい事を見たい、美しい事をやりたいのです(これはシングルスの思想?)

尤もおばさんテニス等は、対決ではなく遊びの仲良しダブルステニス なので、このような思想は余り関係ないと思います。
お菓子→ さあみんなで集まって仲良く甘いもの食べよう→ 小学生の人気職業の第一がケーキ屋さんだし→ ありゃー「ネチネチ勝敗」による弊害のガス抜きだ→ どうせならテニスなんか止めてお菓子会だけでもいいのでは?(冗談だ)→ 尤もこれはMちゃんのことじゃないからね→ ついでに言うと私は仲良しテニスを運動が出来ると言う点で決して否定はしないからね。 
だったらこの場合でもやはり勝敗が明確でない「さわやかテニス」の方が、いらない対立を生まない分いいと思うのだが?  
さわやか試合の面白さ利点は、以前二人で盛んにやっていた剣道M君は分かると思います。 
さすがに剣道3段の腕前、直接対戦相手のあるスポーツの本質を理解しています。 
柔道Mさん私もそうですが武道を経験した人は「爽やか試合」は自然に馴染めますね。 
「爽やか試合」と「ネチネチ試合」の思想的違いは項目を設けて先行ブログに書いてます。

又これはK1ちゃん等忖度テニス、接待テニスをやらなきゃならない人たちに呼びかけますが、忖度テニス、接待テニスをやるくらいなら、カウントを気にしながらやる「ネチネチテニス」より「爽やかテニス」の方がよっぽど楽だと思うのですが?
又我々疲れやすい老人等は、いつでも止められるという利点もあります。
このように「爽やかテニス」は正式試合では無い日頃のテニスのあらゆるシーンに最適なやり方なのです。
ところでK1ちゃん、Mくん、私が動けるうちに是非対戦をお願いいたします。
まだMさんと2時間連続でやれる体力は残っていますので。
ところで考えるーそれでは何故このように日常のテニスシーンにおいて最適な「爽やかテニス」が行われないのでしょうか?
①.下記の固定観念に凝り固まって皆が身動きが取れなくなっている
②.一部の中途半端に上手い人がマウンティングしたいが為に「ネチネチテニス」を要求するーこの世界では強いか弱いかの価値観が判断基準になる為上記の人の主張が通る
③.テニスの試合と言うのは野球等のロースコア試合と異なって一発逆転は無く実力が如実に反映される世界=言わばトーナメント式なのに、皆が勝てると宝くじの夢を追い求めている
④.改革反対、現状維持の消極的心性の人がいる→試合に必要な攻撃的心性が欠如してるのでは?→Kさんは失敗を恐れる消極的プレーが目立った。

固定観念、物の見方、結局は視点の問題点「爽やか試合」自体についてはただカウントを取らないだけなのに、なかなか皆さんが固定観念を捨てきれず、理解が難しい様です。
これは最初に書きましたが視点の問題で、結局人間考え方、思想を理解する変更するのは非常に難しいという事なんだろうと思います。
Kさんの硬直性は目立ってましたが、Mちゃんでさえ爽やか試合はいつ終わらせるのかと質問して来ました。
これは今の「ネチネチ試合」のやり方が、頭にこびりついて離れない証拠だと考えられます。
この固定観念にとらわれる有様は、新興邪悪宗教が問題になりましたが、これで囚われた人たちの組織の論理、掟から逃れられなくなる恐ろしさが理解出来ると思います。
すなわちテニス村という組織、仲間から、「ネチネチテニス」というルール、固定観念から、エセ競争意識(Kさんは弱気の塊)から逃れられなくなるのです。(笑い)
柔軟な思考ということで、前述「競争の意味」のところでジャンルによると書きましたが、Mさんとの勝負のさわやかシングルスで、「私のサーブの場合のテニス」というジャンルで真剣勝負をやっていると考えてもいいのです。
又「爽やか試合」のオプション=変態試合(笑い)のところで、我々 老人又は初心者に向いた様々な柔軟なやり方を提示していますので検討してください。

Rテニスへの再度のお誘い以上「爽やかテニス」思想及びその有効性をかなりご理解いただけたと思います。
私がやりたいのはアドレナリンが出る真剣勝負ですが、第一目的はとっさの運動であり、又方針としてケチなことは言わず与えられるものは全て与えるwin-winを標榜していますので、練習、変態テニスOK、老若男女、初心者分け隔てなく全てにいつも門戸を開いております。
シングルスについてですが多分皆様は又固定観念を捨てられず過酷な運動を想像しそうですが、再度強調するのは「爽やかテニス」は疲れた時はいつでも止められる我々老人等に向いた処です。
又テニスに限らずスポーツはたまた全ての事柄について話し合い、議論は頭の運動になり大歓迎です。
ウィークデーは木曜日を除いて午前中やっておりますので、私もそうですが毎週必ず出席という必要はないのでいつでもお越しください。
その際はこちらの都合で空振りもありえるので、もし出来れば前もって連絡をいただければ有難いです。
また友人に宣伝していただければ幸いです。

結論 以上ですがこの作文の主題は、「ネチネチ試合」志向と「爽やか試合」 志向の人は、本質的には相容れないという事です。
この様な事はその人の気質的なもの、おそらく素質に根ざしたものだと思われ、これは皆の共通認識であると言う事に依存はないと思います。(対立姿勢のアドレナリンが出っぱなし、笑い)
多分のべつ幕無しの競争性の強い心性の人は、前述の通り観客者の視点→客観的視点は持てないので、相手の素晴らしいプレーに対して拍手をするという行動は、恐らく理解出来無いと思います。
又今高校野球でナイスプレーをやった時のガッツポーズ等について問題になっていますが、ナダルの様に相手が素晴らしいファインプレーを演じてガッツポーズ等を取った時、恐らく自分に対する挑戦と感じるのではないかと思います。
やはりセンサーの部分の違い、人間同士どうしても越えられない壁が有ると思います。
ではネチネチ志向者とさわやか志向者で妥協点=試合は出来ないのでしょうか? → 出来ます。
それは今でもオープンAIのアブリを作成し、2台のスマホをカメラとして使用してin-outの判断およびカウントをさせれば可能か?と思いますが、他にネチネチ志向者はタイブレーク 式に黙ってネチネチとカウントすればいいのです。
この場合サーブ交代を如何するかですが当事者同士で任意に決めていいと思うのですが、ある程度続けた方がテニスのゲーム先取制に合ってると考えるのであれば、平均ジュースに一回はなるのを想定して8ポイントで交代が良いかと思われます。
そして自分を振り返って考えてみる→この場合自分が勝っていた場合は試合後密かにほくそ笑むに満足出来るか?
あるいは更に結果を相手に敢えて言って屈辱を与えたいか?そして試合中負けてきた場合は多分嫌になると思うのでその時はカウントを取るのを止めてしまえばいいのです。
以上から分かると思いますが、言いたい人はただマウンティングがしたいだけと結論されると思います。(笑い)

この文章について今まで「爽やかテニス」のブログにその後考えた事を少しずつ書き加えて来ましたが、本文はブログと重複の部分もかなりあり、くどい様で閉口される部分もあると思いますが、共に参考にしていただければ幸いです。
この文章はメールの常識を超えてかなり詳細に書かれていると感じられると思われますが、その様な事情があります。
又これらの文章、ブログはオープン AI は使っておらず、自分の頭で考えて書いております。
従ってあくまでも私の個人の意見で偏見の可能性があり、現実事実を反映しているとは言い切れない部分があるかと考えます。→ 全ての意見に限らず情報は確率論的である
そこで結論の全てはご自身の判断にてお願い致します。(なにやら投資信託の勧誘文の終わりになっちまったなー笑い)

最後にこのブログを読む人の反応を想像しますが、失礼を承知で申し上げれば、本文のような話題はFさんは現象として興味を持つかもしれませんが、Mさんは多分どうでも良いと感じられると思います。(笑い)
一方かなり深刻に受け取られる方もおられると思います。
ニヤニヤ笑って楽しんで読まれる方も。後は物を余り考えずよく分からない人。
又このブログは敢えて挑発的な言葉を書いて皆さんに考えて貰うのが筆者の真意ですが(笑い)、思考が自分本位の人(主観的思考の人)は自分に対する挑戦だと自分に都合のいい解釈をして筆者に反発を感じる方もおられると思います。
やはり人間はセンサーの部分の違いがその人を決める大きな要素になると言う事だと思います。
最後にこの作文を書く為に人間心理を深く追求する作業等で、マイナスイオンが出て私は又「ネチネチ毒」に犯され始めています。
止ーめたっと
こういう時は「鬱屈テニス」ではなく「爽やかテニス」をやるのが一番いい方法です。
とうとう「ネチネチテニス」ではなく「鬱屈 テニス」になっちまったな。(笑い)
    
Re; 美しいテニス(続き)                    2023年4月

こんばんわーお騒がせします
先に美しいテニスのお誘いのメールおよび文書を皆様に回しましたが、あの文書に基づき私これから主としてテニス及び将又その他についても出来る限り以下の態度表明をいたしたいと存じますので宜しくお願い致します。
あの文書で世の中は競争と協調が織り成す関係と書きましたが、私ももう短い人生、出来る限り協調に主眼を置きたいと思うに至りました。
そこでテニスに於いてはもう既にやっておりますが要らぬ対立を生まず不幸な人を作らない公式試合以外の「爽やか試合」の徹底、そして具体的にはお互いの共同作業である相手のいいショットに対しては双方を気持ち良くさせる拍手と後の褒めを行いたいと思います。(笑い)
人間は美しいものが見たい、美しい事がやりたいのです。
ブログでもサチャーの以下の文言を書きましたが「考えが言葉になり、言葉は行動に、行動は習慣に(=「心性の習慣性」と筆者は名付ける事にした)・・・」ですので、拍手及び褒めに由ってその人がいい気分更には向上が得られればそれに越した事は無いと思います。
更に私微力ですが上手くなりたい方は出来る範囲で助力を惜しまないつもりです。
又テニス外でも相談等に乗れればと思っています。(Fさんに由れば迷う事になるかも知れませんが(笑い))
何故この様な考えに至ったかと言いますと、我々年配者は長く世の中に生かされて来てやはり少しでも還元しなければと思うからであります。
ですので宜しい方は再度Rテニスに参加いただくのを呼びかけたいと思います。
是非お互いにWin-winの関係、プラスサムゲームをやろう。


Re; Kさんの事                         2023年9月

昨日はどうも

Kさんのことだけど これはもう何度もメールに書いて皆さんに発表しているが 、KNちゃんはKさんは性格が悪いと言ったけど、彼の名誉のために言うが、彼は性格は決して悪い訳では無いと思う。
テニスのプレイ以外は何も問題がないし、非常に真面目だ。
これはもう何度も書いているが、彼の素質から単純な一つの視点ーネチネチ試合に勝つことしか眼中に無かったという事だと思う。
すなわち私の様にテニスの目的についてとっさの運動が第一、次に美しいプレーをしたいが第2、次に真の勝負をしたいというのが第3、そして観客受けする事もでネチネチ試合で 勝つかどうかということは一番最後に来るという事で、多様な視点があるかどうかということの違いだ
この私の態度は別の視点から見れば問題を曖昧にし、ごまかしていると言えるかもしれない(笑い)
Kさんは多様性が無く只単に人間が単純で、それが多面的視点欠如につながっていると言う事だ
テニスに関しては変な理論を持ち出し、嫌な勝負は避け、むしろ性格的には私の方が意地が悪くいい性格では無いと思う(あはは)
今になって思うが、不満があったらもっとはっきり直接彼に言うべきだったと思っている

又これは極めて主観的な見方、視点であるが、彼の態度は結局美意識の問題だったと思っている
「人間は美しいものが見たい、美しいものをやりたい」と私は繰り返して書いたが、この美という表現自体全ての人に当てはまる訳ではなく、極めて主観的な視点に立脚した表現である
だから負けた悔しさをああいう形で表すという事に対し、彼は美しくないと思っていないし、他人の美意識の視点に気が付かないだけである。(反対語と言われている”汚い”と書くと間違いである。彼は決して不正はやらない。)
又同様に日大アメフト事件が問題になったが、内田監督、井上コーチその他はああいう形で自分の醜い姿をテレビ画面に晒すのを美しく無いと彼らは思っていないし、他人がどう評価するかという事についても理解していないだけである
だからやってしまうのだ
結論ー結局「スポーツマンシップとはこの美意識の問題が大きな要素だ」と思う
だから全ての人の共通認識ではないし定義が難しい

以上納得しましたか?
私は何もこの意見を強制している訳ではない
客観的に考えてそうではないかと思っているだけである

そしてここからは私の主観を並べ立てる
Kさんを始めその辺のネチネチテニス派たちに対しては、たいして重要でもない日頃の試合で、何んでそんな競争なんか毎回しなきゃいけねえんだ
レベルの低い(失礼、私も含め殆どの人はそうだから)こんなとこの試合で勝って嬉しいか?
他人の意見にそのまま同調するだけでなく、人の思惑を気にしたり、人に流されたりせずに、自分が感じている事やりたい事をはっきりさせろ
固定観念を捨て別のやり方爽やか試合にトライすれば、又別の新たな世界が見えてくる
Kさんに対しては極めて主観的な表現として”哀れだ”という言葉を進呈する
上手くないにもかかわらず、勝敗にこだわりそれを隠さず(勝敗などどこ吹く風というふりをすれば別だが)そして負けてその後の行動を見ていると、余りにも哀れで見ていられない
そしてこれはKさんだけの事で自分は関係ないとはっきり言えるだろうか?
少しでもネチネチ勝敗にこだわる気持ちがある我々全員が、多い少ないはあれKさん的要素があるのを自覚する必要がある
以上テニスその他勝敗を無理にでもつける試合は、やはり自分及び他人の哀れな姿等見たくはないし、やらなければそれを未然に防ぐことが出来る
そして爽やか試合にはネチネチ試合にない利点、面白さがある
だから私は公式試合等を除いてネチネチ試合はやらないと宣言する

又テニスその他宜しく
とにかく”美しいテニス”をやろう(笑い)
続きブログ:投稿: 編集 (blogger.com)


                             

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